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朝こそ気落ちしていたものの、淡々と退屈な授業を聞き流しているうちにその感情も薄れていった。あれはやっぱり自分の妄想だったのだ。どうして佳唯の姿を妄想の中に描いてしまったのかはわからないけれど、夜の海という言わば非日常の中で人魚のように闇を泳ぐ佳唯の姿は、想像するだけで美しいと思った。ふさわしい、と思った。無意識にも佳唯にそんな印象を抱いていたから、妄想に彼が現れてしまったのかもしれない。すべての授業を終え、放課後を迎える頃には、逢生はそんなふうに自分の中で結論をつけていた。少しばかり残念に思う気持ちはまだ胸の奥で燻っていたけれど、きっといつものようにアルバイトをこなし、夕飯を食べ、風呂に入り布団に潜って、そうやってまたいつも通りの朝を迎える頃にはその感情も薄れているだろう、と思えた。
そんなことを考えながら、部活動や委員会には属していない逢生は早々に学校から退散すべく上履きからスニーカーに履き替えた。逢生は自転車通学のため、校舎裏にある駐輪場へと向かう。そんな道すがら、砂を蹴るスニーカーにふと目を落とした。それはあまりにも白茶けて汚れている。定期的に洗ってはいるものの、もうどうにもならないほどに泥やらなにやらがこびりついてしまっているのだ。靴底も擦り減ってきているから、そろそろ替えどきかもしれない。今月のアルバイト代でどうにかなるだろうか、と算段を立てながら歩いていた、そのときだった。
「おい」
唐突に背後から声をかけられた。
名前を呼ばれたわけではない。声をかけてきたのが誰かもわからなかった。けれど、それが自分に呼びかけられたものであると逢生はなんとはなしに理解した。逢生はその声がけに従って振り向く。そして、自分の目で見て初めて、誰が自分に声をかけてきたのかを理解した。理解して、逢生はようやくはっと息を呑んだ。
(稲越、佳唯)
思わず、その人の名前を胸の内で呟く。
振り返ると、鋭い光を灯した大きな瞳が逢生を突き刺すように睨んでいた。まるで吸い寄せられるように、逢生はその瞳に捕らえられて逃れられなくなる。
本当であれば、明らかな敵意がこもったそれは居心地の悪いもののはずだ。それなのに、今向けられているそれは少し違っていた。昨日の夜の妄想がまだ頭の片隅に燻っているせいだろうか。居心地の悪さよりも、逢生は自分の鼓動のほうがよっぽど煩わしく感じるのだった。
と、ふいに佳唯の瞳がぐらりと震えた。長い睫毛が戸惑うように伏せられ、それから、辺りを伺うように視線が揺れる。
そんな佳唯の様子を見ていると、ふと、腹の底にストンと落ちてくるものがある。少なからず、佳唯の敵意に気後れを感じなかった理由はわかった気がしたのだ。佳唯の視線は今もなお、人目を気にするように辺りを伺っている。佳唯のその仕草には、隠しようもない不安が滲み出ていたのだ。怯え、と言ってもいい。そういう佳唯の透けて見える感情が、逢生を委縮させなかったのだろう。
それから、逢生もつられるように辺りを見回した。部活動に勤しむ声や楽器の鳴る音は聞こえてくるものの、周囲には人影は見えない。けれど駐輪場にはまだまだ自転車は停まっていて、いつ誰がここにやってきてもおかしくはなかった。
逢生は、佳唯が徒歩で通学していることを知っていた。そして、彼が自分と同じく委員会や部活動に属していないことも知っている。だからこそ、佳唯が今ここにいて、そして逢生に声をかけてきたということがなにかしらの意味を孕んでいることは明白だった。そもそも佳唯は、たまたまクラスメイトに出くわしたから声をかける、というタイプの人間ではない。もっと言えば、逢生は佳唯から声をかけられるような間柄でもない。
一瞬、逢生の頭の中を昨夜の光景が駆け巡る。けれど、逢生はそれをすぐに打ち消そうとした。あれは夢であり、自分の妄想のはずなのに、と。
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