一、野良猫

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「なに」  けれど、そんな逢生の心情と裏腹に、そう問い返した声音は変に強張ってしまった。忘れようとしていた期待が腹の底でむくむくと頭を上げ始めていた。それを無理やり押しつけようとしたせいか、声に緊張が滲んでしまったのだ。  逢生の問いかけに、佳唯はなにを感じ取ったのだろうか、びくりと肩を震わせた。はっとしたように逢生を見る。目と目が合う。その瞳に動揺と怯えが浮かんでいるように見えて、逢生もまた、動揺してしまった。  けれどそれも一瞬のことである。見間違いだったかと思うほどの短い間で、その怯えは警戒と威嚇の色に塗り変えられてしまったのだ。佳唯はいつもの鋭い瞳で、再び逢生を睨んできた。そして、言う。 「おまえ、昨日の夜、なにしてた」 「……は?」  そんな佳唯の問いに、意図せず低い声が出た。そんな逢生の声音に、佳唯の肩がまた小さく震えたのがわかった。けれどその一瞬の怯みを誤魔化すように佳唯は唇をぎゅっと噛むと、より一層視線を鋭くする。 「昨日、なにか見たかって、訊いてる」  押さえつけようがなかった。ぶわり、と逢生の腹の底で熱が広がる。指先が痺れるような高揚感。喉元まで込み上げてくる勝鬨。逢生はそんな今にも溢れ出しそうになる興奮を抑え込むように、ぎゅっと拳を強く握った。手のひらに爪が食い込んでピリリと痛む。その感覚すら、今はなんだか気持ちがよかった。  佳唯のその問いは、逢生にとっては「答え」でしかなかった。昨夜の出来事は夢ではなかったのだという、確かな根拠にしかならない。だってその問いかけは、なにかを見たかもしれない者にしか尋ね得ないものだ。そしてそれを佳唯が逢生に尋ねるということは、導かれる答えはひとつしかない。昨夜のあれは現実だった、ということだ。  けれど逢生は佳唯の問いに対する答えを言いあぐねる。もしも素直に佳唯の問いに「応」と頷き、昨日見たものをそのまま話せばどうなるだろう。佳唯はなんのために、わざわざここまで逢生を追ってきてこの問いを口にしたのか。肯定すれば、昨夜のことが現実だったことは確かに明らかになる。けれどなんとなく、それと同時に佳唯は逢生を敵とみなすだろう、と思った。ただでさえ警戒心の強い佳唯に、これ以上の壁を築かれるのはなんだか嫌だな、と思った。  そんなことを考えている間にも、佳唯はじいっと逢生を見つめてくる。その瞳は睨んでいるようにも見えるし、あるいは、逢生の様子を伺っているようにも感じた。あの暗がりの中だ、佳唯とて昨日のことは半信半疑なのかもしれない。  が、そんなふうに考え込んで黙ったままでいた逢生に、佳唯もとうとう痺れを切らしたらしい。ぎゅうっと眉間に深い皺を刻むと、佳唯は今度こそ逢生を睨めつけ、絞り出すように言葉を紡いだ。 「……たとえおまえがなにかを見たんだとしても、」  その声は低い。唸るようですらあった。 「誰にも言うな。全部忘れろ」  それから、佳唯は早々に逢生に背を向けた。ザリッと砂を蹴る音が、ようやく逢生を現実に引き戻す。気がついたときには佳唯の背中は遠ざかり始めていて、逢生は思わず空気を食んだ。  ――おまえ、昨日の夜、なにをしてた  小さくなっていく佳唯の背中を、かける言葉もなく見送る。見送りながら、逢生の頭の中でそんな佳唯の問いかけが幾度となく繰り返された。  ――昨日、なにか見たかって、訊いてる  押さえつけていた高揚感が胸の中で疼き始める。知れず、唇の端に笑みが滲み出た。 (あれは、夢じゃなかった……)  そう思えば、堪えきれなかった笑いが「ははっ」と音になって唇から零れ落ちた。 「夢じゃ、ない」  それから、駄目押しのようにそう呟いた。ぎゅっと拳を握り込む。その拳を、にやける唇を隠すように口元に当てる。どくどくと高鳴る心臓は、もはや痛いくらいだった。 「夢じゃない」  まるで魔法の呪文のようだった。その言葉は逢生の心をふつふつと熱で満たしていく。それと同時に、まだまだ盛りとばかりに輝く太陽の鮮やかさが急に目に染みてきた。それだけではない。青々とした木々の葉の色鮮やかさ。時たま頬を擽る風の匂い。これまで気にも留めていなかった、当然のようにそこにあるものたちが、急に輝いて見えた。世界が色で満ち満ちていくようだった。  どうしてこんなにも嬉しいのだろう。どうしてこんなにも、どきどきと心臓が騒がしいのだろう。その答えはわからないままに、逢生は何度も、何度も、その言葉を繰り返した。
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