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2、
そのあと逢生は、半ば夢見心地のままアルバイトに向かった。
この時間は、逢生と店長、それからもうひとりのアルバイトとの三人体制である。逢生が働くコンビニは住宅街の中にあるせいか、客足はないわけではないけれど、そこまで極端に忙しくなることもない。とは言え、サラリーマンなどの帰宅時間を迎えるとそこそこな人入りが出てくる。今はちょうどその直前の時間帯で、今のうちに品出しやバック業務を済ませるのがこの店舗での常だった。店長はバックヤードに入り、もうひとりのアルバイトはドリンクの補充で裏にいる。逢生は店内に残り、たまに来る客のレジ対応をしつつ、品出しをしていた。
つまりそれは、手は動かさなければならないけれど、そこまで頭は使わない淡々とした作業ということである。逢生はその状況に甘えて、黙々と手を動かしながらも頭では別のことを考えていた。
(夢じゃない)
逢生の中に駆け巡るのは、当然の如く佳唯のことである。昨夜のあれが間違いなく佳唯だったという確信を得てからは、記憶の中の夜の海に浮かぶ彼の姿はより一層鮮明になったような気がする。闇に浮かぶ白い肌。そこに浮かぶ血色を感じさせる赤い唇。筋張った首筋や鎖骨に伝う雫。逢生に向けられた、月を反射して輝くアーモンド型の大きな瞳。
そんなふうに夢見心地でいたのがよくなかった。
「すみませーん」
そんな声が聞こえてきて、逢生ははっとする。声が聞こえてきた方向、レジのほうを見やれば、品物を置いて会計を待つ客がいる。どうやら、その客が店員を呼ぼうと声を上げたらしかった。まずい、と逢生は慌てて立ち上がる。こうして呼ばれるまで、会計待ちの客がいることどころか、店内に客がいることにすら気がつかなかった。注意散漫もいいところである。
「お待たせしました」
逢生は「すみません」と頭を下げつつレジに入り、置かれた商品を手に取った。ミルクプリンと紙パックのカフェオレを順に読み取りつつ、逢生は客の様子を伺う。
コンビニに来る客は千差万別だけれど、どちらかと言えば急いでいたり、妙にピリピリと苛立っていたりする客が多く感じる。待たせてしまったことにヒヤヒヤとしながらも、しかし、その客に腹を立てている様子はなさそうで逢生は内心でほっと息を吐いた。客は学生服を着ていて、同い年くらいなのだろう、とすぐにわかった。そしてその学生服にも心当たりがあった。この辺りでは難関校、加えて金持ちしか通えないと有名な私立高校の制服だった。
むくり、と逢生の中に好奇心が湧き上がる。こういう学校に通う学生はどんな感じなのだろう、と思ったのだ。それはあまりに漠然としていて、大した意味も、価値すらも持たないような好奇心だった。けれど父子家庭で育ち、生活にも余裕があるとは言えず、加えてお世辞にも頭がいいとは言えない自分とは果たしてどう違うのだろう、と思ったのだ。言ってしまえば、その学校に通う生徒は自分とは真逆に位置しているのだから。
「袋にはお入れしますか?」
逢生はあくまでさりげなく、定型句を口にする際に視線を持ち上げてみた。これまでは相手の胸の辺りに据えていた視線を、その顔へと持っていく。
が、逢生は相手の顔を見て、思わず言葉を呑んでしまった。
「……は?」
それに加えて、情けない、感嘆ともつかぬぼやきを零してしまう。
一方でレジを挟んで立つ客は、にこにこと愛想のよい笑みを浮かべていた。そして、逢生の問いに「お願いします」と応える。
けれど、逢生はそれにすぐに応じることができなかった。信じられないものを見る目で、相手を見つめることしかできなかった。事実、目の前に信じがたいものがいるのだから致し方ない。そこにいたのは、先ほどからずっと逢生の頭を占めてやまない稲越佳唯その人だったのだから。
いや、正確に言うのであれば、佳唯の皮を被った別のなにか、かもしれない。だって佳唯は、逢生と同じ学校の生徒なのだ。有名私立高校の制服を身に纏っているはずがない。それに、そもそも佳唯はこんなふうに人好きするような表情は浮かべない。逢生の知る佳唯ならば、ではあるけれど。
一方で佳唯の顔をしたそれは、そんな逢生の様子になにか思うところがあったらしい。人好きのする微笑はそのままに、わずかにそのアーモンドアイを細めた。まるで様子を伺う猫のように、逢生を見つめてくる。逢生をヒリリとさせるような色をそこに滲ませて。
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