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完全に日が暮れた頃、ウミは海を目指して出発した。道はまったくわからなかったが、太陽や月の沈む方向だということは母ネズミから聞いていた。太陽を追いかけるように、月の先を行くように、彼女は懸命に走った。
途中、車通りの多い交差点に差し掛かった。ここを渡らなければ海へは行けない。怖いので迂回しようかと思ったが、ウミはふとあることを思い出した。それは幼い頃に母ネズミから聞いたこんな話だった。
「人間は白い横線の書かれた道を少しの間だけ歩くことができるの。道には大きくて速く動くお家がたくさん通るけど、待っていれば少しの間だけ止まってくれるみたい」
ウミは白い横線が書かれた道の前で立ち止まった。後ろ足二本で立ち上がると、小さく黒目がちな目を細めて車の行き交う道路の向こうに続く道を眺めた。まだ、海は見えない。
そのまま待っていると、車が止まった。
「今だ!」
ウミは横断歩道へ飛び出した。信号を守って道路を渡るネズミに気付いたドライバーが驚きつつもじっとウミを見守っていたが、彼女はそんなことには気付かない。
信号が変わる前に道路を渡りきったウミは小さく飛び跳ねて喜ぶと、動き出した車たちに控えめに手を振って、また海を目指しちょこちょこと走り出した。
そこからしばらくは通行に悲鳴をあげられたくらいで大きなトラブルもなく、ウミは順調に歩みを進めた。しかし、途中でまたお腹が減り、ゴミ捨て場を漁っていると、背後に不穏な気配を感じた。
バナナの皮を持ったままおそるおそる振り返ってみると、ギラギラと目を光らせた黒猫が尻尾を振って立っていた。
「あ、あの……」
勇気を出して話しかけてみるが、猫は何も言わない。緑色の目で穴が空くほど見つめられている。
「良かったら……これ……」
ウミは手に持っていたバナナの皮を猫に差し出した。しかし、猫はそんな彼女の親切を無視して勢い良く飛びかかってきた。
間一髪、ウミは猫の前足の隙間から飛び出して難を逃れた。懸命に走って逃げるが、猫はどこまでもしつこく追ってくる。もう駄目かと思った時、ウミはまた母ネズミの言葉を思い出した。
「毛むくじゃらで目の大きな動物。猫に会ったら、狭い穴に入るか水の中へ逃げなさい。猫は大きいから穴の中へは入れないし、水が嫌いだから水中までは追ってこないの」
ウミは走りながら小さな穴か水のある場所を探した。すると、近くに小さな溝川を見つけた。「小さな」と言っても彼女が住んでいた溝に比べれば遥かに大きく水の量も多かった。しかし迷っている暇はない。猫はすぐ後ろまで迫っているのだ。このままでは捕まってしまう。
「うわー!」
ウミは叫びながら川の中へ飛び込んだ。川の流れは思ったより早く、泳ぎが得意なドブネズミも簡単に流されてしまう。悔しそうな猫の顔がどんどん遠く、小さくなっていく。ウミは憎き黒猫にべーっと舌を出して、もう二度と会わないことを願った。
少しの間流されていると、捨てられたペットボトルが浮かんでいるのが見えた。ウミはそれに掴まると、上までよじ登り、ペットボトルの船に乗って川を下った。下りながら、川は海に繋がっているという話を思い出した。このまま行けば海に出られるかもしれない。そう思った彼女はしばらく船の旅を楽しむことにした。
空には満天の星が輝き、時々流星が流れた。ネズミであるウミに星空は殆ど見えていないが、こんな風に夜空を眺めるのはいつぶりのことだろうと彼女はしみじみ思った。溝の中の闇と夜空の闇は似ているようで違うのだと彼女は知っていた。
どれくらいそうしていただろうか。急に船の揺れが激しくなって、ウミはハッと我に返った。そういえばさっきから嗅ぎ慣れないにおいがしている。聞いたこともない音も聞こえる。今までの川の流れとは反対に水面が動いている。
「もしかして」
ウミは船から飛び降りると、さっきより緩やかになっている水の流れに逆らって泳ぎ、岸によじ登った。さらさらとした柔らかい砂が彼女の歩みを妨げる。だが彼女はまったく不安には思わなかった。これは海の砂なのだ。昼間の太陽の温かさが残る海の砂なのだ! ウミは走った。波の音のする方へ、一直線に走った。
「これが海……」
波打ち際で立ち止まり、深呼吸する。潮のにおいを小さな肺いっぱいに吸い込む。水平線の向こうには満月が浮かんでおり、月光が海の水面に一筋の光の道を作り出していた。両手をどんなにめいいっぱい広げても収まりきらない大きな水溜まりを前に、ウミは自分がどんなに非力でちっぽけな存在かを知ることになった。狭い溝の中にいた時は考えもしなかったことだ。
「お母さんが見た海。とっても綺麗」
ウミの目から一筋の涙が溢れた。母ネズミや兄や姉たちのことを思うと急に悲しくなって、彼女はひとり声をあげて泣いた。泣き声は波の音に掻き消されて殆ど聞こえない。それがなんだか妙に安心できて、思う存分泣くことができた。
「どうしたの? こんなところで泣いてるなんて」
ウミに声をかけるネズミがいた。振り返ってみると、彼女とよく似た若いネズミが立っていた。
「ひとりで悲しまないで。うちにおいで。すぐ近くだよ」
ネズミはそう言うと、ウミの手を引いた。
「で、でも……」
ウミは一瞬だけ躊躇ったが、もう素直になることに決めた。大切な存在を受け入れる強さを、誰かに寄り掛かる勇気を彼女は持ちたいと思うようになっていた。涙を拭いながら「ありがとう」と何度もお礼を言った。穏やかな波の音と、柔らかな月の光が、ふたりを優しく包みこんでいた。
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