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ドブネズミのウミは困っていた。ここ最近の夏場の大雨ときたらまったくもって無遠慮で、加減を知らないかのようにザーザーと降り注ぐ。ウミの住むピザ屋の裏手の溝は頻繁に雨水で水位が上がり、凄まじい勢いで水が流れるようになってしまった。その度に彼女は溺れないように溝から抜け出して、溝の水位が下がるまで店の軒下に避難し、店の裏にある室外機の風に当たってびしょ濡れの体を乾かすのだった。
「もうこんな生活嫌! ゆっくり巣穴でくつろぎたい!」
幾度も巣穴が水浸しになり、その都度避難を余儀なくされていたウミはついに堪忍袋の緒が切れてしまった。この溝はピザ屋にもゴミ捨て場にも近く、ミミズやゴキブリ等の獲物も住んでいて、とても過ごしやすいお気に入りの場所だった。一時他のネズミとの間でご近所トラブルもあったが、そのネズミが猫に食べられてからというもの、実に快適だったのだ。
「せめて夏の間だけでもなんとかならないのかな」
室外機の風に当たりながらウミは考えた。もし夏の間だけのんびり過ごせる別荘があったら、どんな場所が良いだろう……気持ちの良い風が吹く場所が良い。でも乾燥していなくて、程よく湿り気があり、食べ物に困らない場所……
考えているうちに彼女はだんだんと眠くなってきてしまった。最初は小さな両手で顔をこすってなんとか耐えようと頑張ったが、そんなことを何度か繰り返すうちに、ついに眠気に負けて室外機の風にそよそよ吹かれながら眠ってしまった。
そして夢を見た。
今よりもっともっと幼い頃の記憶だ。まだ家族みんなでとある飲食店の壁の中に住んでいた時のこと。7匹いるうちの末っ子のウミは一番の甘えん坊で、何をするにもどこへ行くにも母ネズミの側を離れなかった。
母ネズミは臆病なウミのためによく外の世界の話をしてくれた。彼女が少しでも外の世界に興味を持って、いつかひとりでも冒険できるように。その中でもウミが最も興味を示したのは、自分の名前と同じ、海の話だった。
「あらあら。また海の話がいいの?」
「うん。はじめて海を見た時のお話して」
母ネズミはウミを抱きかかえながら、目を閉じるように言った。そして海の青さや空の広さ、太陽の光を浴びてキラキラ光る水面、寄せては返す波の音、少しベタつく風と潮のにおい、太陽の熱を蓄えた砂浜について、ひとつひとつ丁寧に話した。ウミは言われたとおりにまぶたを閉じ、それらを想像しながら眠りについた。彼女は一度も海を見たことがなかったかが、不思議と海がどんな場所であるのか想像できた。
「お母さんはね、ウミにこの世界で見た一番雄大なものの名前をあげたんだよ」
そんな母ネズミも他の兄弟も、今はもういない。人間に駆除され、死んでしまった。臆病なウミだけが生き残ったのだ。大好きだった家族を失い、彼女は孤独になってしまった。引っ越した先で心優しいネズミが何匹か一緒に住まないかと声をかけてはくれたが、ウミは独りでいることを選んだ。大事な存在を二度と失わないために。いつも決まった溝の中に住んで、お腹が減ったら近くのゴミ捨て場や静まり返ったピザ屋の厨房に入り込んで、また溝の中へと帰り、大人しく眠りにつくという何ら変わり映えのない孤独な毎日。今も、彼女は外の世界を殆ど知らない。
目を覚ましたウミは自分が泣いていることに気がついた。悲しい思いをしないように、寂しい思いをしないように独りでいるというのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。彼女は小さな両手で涙を拭い、完全に乾ききった体をゆっくりと起こした。辺りは薄暗くなり、東の空には満月が登ろうとしていた。
――決めた。私海へ行く。
臆病だが一度固く決心したウミは誰にも止められない。彼女はボサボサになった毛並みを整えると、海を目指して一歩踏み出した。しかし――
ぐぅぅ……
最初の歩みを妨げるように、大きくお腹が鳴った。まずは腹ごしらえをしなくてはならない。ウミは近くにあった木の枝を拾うとピザ屋の換気扇に突っ込んで動きを止め、隙間から厨房の中へ入り込んだ。人間たちは忙しそうに動き回っている。彼女は素早く床の上を走り、大胆にもトッピングが置かれたケースへ突撃すると、大好物のサラミをできるだけ多く引っ掴んで一目散に逃走した。
「キャーッ!」
厨房に悲鳴が響き渡る。ウミは換気扇の隙間からなんとかサラミと一緒に抜け出すと、室外機の裏に隠れてむしゃむしゃとサラミを頬張った。臆病な彼女だが、サラミのこととなると少し大胆になってしまう。しばらくここのサラミは食べられないので尚のこと。
「君とのお別れはつらいけど、涼しくなったらまた迎えに行くからね」
ウミは最後のサラミを抱きしめると、豪快に口の中に押し込んだ。
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