さば雲

1/5
前へ
/9ページ
次へ

さば雲

 濃紺のパンツスーツに着替えた後、ストッキングの足でサンダルを履きベランダへ出た。高い空を見上げて夏とは違う雲を見つけると、思わずヨシッと声が漏れる。部屋へ戻り、洗面室の鏡の前で肩甲骨のあたりまである一度も染めたことの無いストレートの黒髪を、ゴールドの縁取りの黒のシニヨンでまとめる。通勤鞄と昨晩から玄関に置いておいた可燃ごみを入れたゴミ袋を持ち、自宅マンションを出た。 「おはようございます。あら、彩智さん。今日はもう出勤なの?」    ゴミ捨て場で背後から聞こえた声に応じて振り向くと、同じマンションの小柄な年配女性がジャージ姿で立っていた。 「高田さん、おはようございます。そうなんですよ。会社から三駅遠い場所でセミナーがあるんで、今日は早めに出ます」 「まぁ、大変ねぇ。気を付けてね」 「はい。行ってきまーす」  何気ないご近所さんとのやりとりは、東京で一人で暮らす私の支えであった。  学生時代は大学近くの女子学生専用のマンションに住んでいたが、就職時に今住んでいる賃貸マンションへ越した。  高田さんは、ご主人が玄関ホールでうずくまっていたところを私が偶々通りがかり、救急車を呼んだことが縁で親しくなった。  お化粧が濃いところやいつもきっちりパーマをあてているところが祖母に似ていて、親しみを感じていた。お子さんやお孫さんは全員男子で、私と話すのは楽しいと言ってくれていた。この間は、「お返しはしないでね」と念押しをされて、衝動買いしたというシャインマスカットを一房分けていただいた。東京のおばあちゃんと密かに呼んでいることは、いつか伝えた方がいいのだろうか。  急ぎ足で徒歩十分の最寄り駅へ向かう。ここのところスカートかワンピースでの通勤が多かったが、今日は力作業があるためパンツスーツを選んだ。コンクリートを蹴るように歩いても違和感なく見えるスタイルにあやかり、歩道橋もドドドッと勢い良く駆け上がり、同じように下りる。随分とインナーマッスルが鍛えられそうだ。今日という日を、無事に乗り越えられそうな気がしてきた。  少しだけ汗が滲んだ額はそのままにして、改札を出てホームに立った。通勤ラッシュより早い時間帯だからか、人はまばらだった。いつもの朝とは違い、心待ちにしていた電車へ乗り込む。空席が目立つものの座らずに、ドアにもたれかかり振動に身体を預け、窓の外を見た。秋の空に浮かぶ雲を、私は見たかったからだ。  あぁ、やっばり。  あれはいつかの秋も見た 「さば雲」だ。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加