第二話 振り袖姿の一見さん

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 俺は、それに灘の酒をぶつけてやろうと考えた。灘は兵庫県の地名だ。そこは日本三大酒どころのひとつとして有名であり、古くから日本酒造りが盛んな地域だ。  そこの酒は大変特徴的だ。黄色く色のついたその酒は麹臭い味わいだ。辛口が多いが、酸味が強く芳醇な旨口の酒もあり、個人的にはそちらの方が好みだ。  その地方の酒は、力強い酒質から「男酒」なんて言われたりする。そのハッキリとした味わいが、煮付けなどの濃い味の肴に大変よく合うのだ。 「承知しました。少々お待ちください」 そう言うと、俺は背を向けた。  煮付けは一見、手間が掛かりそうな料理だが、実際は全くそんな事はない。むしろ、手間を掛けてはいけない料理だ。  強いて言うのであれば、煮付ける前に行う、熱湯を使った霜降りだ。生の食材を熱湯につけて、臭みを取る作業だ。取り損ねた鱗を除去する最後の機会でもある。この工程だけは手間を惜しんではいけない。たった一枚の鱗が、その魚料理の食味を大きく損ねてしまう事もある。  その後、一かけのショウガにネギとゴボウを加えて、醤油と酒とみりんで煮付けるが、時間がポイントだ。うちでは、決して十分以上煮付けない。身が固くなり、旨みと風味が飛んでしまうからだ。  昭和以前の煮付けは四十分程煮る事があったが、それはあくまで鮮度落ちした魚を食べる為の「手段」に過ぎない。と、俺は考える。  コールドチェーンが発達した現代において、食は「嗜好」であり、素材を殺してまでオーバークックする事を料理とは呼ばない。その女性が片口で煌めく超辛口の日本酒を空にしたタイミングだった。俺の料理は完了した。
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