第三話 うっかりミス

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 刺身を切っていて気が付いたのだ。今、この肴の鮮度は最高だ。  魚は旨いタイミングがふたつある。一つは獲れたての弾力がある状態だ。今がそうだ。噛めば跳ね返るような弾力と、新鮮な脂の甘みを楽しむ事ができる。特に、その弾力は大型の根魚特有の素晴らしいものだ。それは極めて時限的なものなので、それを楽しむなら、今この瞬間なのだ。  これが、時間を置くほどに弾力は消え、代わりにねっとりとした旨みが出てくる。いわゆる「熟成」だ。  今はその前者を体感するには絶好のタイミングだったのだ。それを彼女にも体験して欲しかった。甘やかしではない。感受性豊かな彼女は必ず何かを学び取ってくれると、そう期待しての事だ。  俺は奥のテーブルに刺身とカルパッチョを運んで、常連客達に言った。 「これには吟醸酒だな。それをキンキンに冷えた冷酒でどうだい?」 「おう、いいね! それの二合徳利を四つ頼む!」 食に関して、彼らからは信頼されている。でないと、未知の食材を前にひとり二合もオススメの酒を頼まないだろう。ありがたい話だ。  そんなこんなで、そこから客は増え、その日は満員状態が続いた。閉店後、テーブルを拭きながら美月さんが言った。 「治さん、あのウッカリカサゴ、凄く美味しかったです! 跳ね返るような弾力に磯の風味、それに脂が乗っていて、しかもその脂が甘くて……。私なんかよりお客さんに出した方が良かったんじゃないですか?」 それを聞いて、どこまでも真面目な子だと思って俺は笑ってしまった。 「いいんだよ。これも経験だ。食べた事がなければ、その魅力をお客さんに聞かれた時に答えられないだろう? 残った半身は昆布締めにしてある。二日後のまかないも楽しみにしておくんだな」 昆布締めにはまた違った魅力がある。今度はねっとりとした旨みの爆弾だ。きっとそれも、彼女には感動モノだろうと思った。やはり、案の定だった。彼女はまたそれにも感動してくれた。
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