第一話 鮭の皮論争

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 それを初めて食べたのは、俺がまだこの小料理屋を開く前、サラリーマン時代に釧路へ出張した時だった。  釧路の和商市場で食べたその刺身は、いわゆる外国産サーモンと異なり、脂は少なくアッサリしていた。しかし、その風味は一度食べたら忘れられない。何とも濃厚な鮭独特の香りが鼻腔をくすぐる。そう、その風味はまるでイクラのような広がりと奥行きを見せ、多くの日本人は一瞬でその虜になることであろう。  そんな高級なトキシラズを備長炭で丁寧に焼き上げたのだ。遠赤外線効果で外側はパリッと、中身はジューシーでホクホクである。これには甘口の純米吟醸がよく合う。  よかった。今日の客はふたりとも日本酒が大好きなようだ。こちらの想像を超えるペースでグイグイ飲んでいたのだ。なおも戸惑う彼女に、笑顔で追い打ちをかけてみた。 「それに、鮭の皮は最高の肴ですよ。本日お出しした甘口の純米吟醸によく合いますよ」 「本当に?」 その女性は目の前の一切れの皮に箸を入れた。 「あっ、グニャグニャしてない。サクッとしてる!」 驚いた様子で、その皮の端の一センチ程を取り分け、恐る恐る口に運ぶ。 「うん……。美味しい! サクサクで、後からジュワっと旨みが広がって……。確かに、お酒に合うわね!」 その男性はホッとした様子で言った。 「そうだろう? いやー良かった良かった!」 すると、女性は言った。 「今までのシャケの皮って、なんだかグニャグニャで、生臭くて気持ち悪かったんだけど、これなら美味しい!」 美味いか不味いか。それは、結局は食材の質と調理法にもよるのだろう。最初に出会った料理の味で、その食材の好みが決まってしまうのかもしれない。ひとりのお客さんのそれを、今日、覆すことが出来たのなら、それは料理人冥利に尽きるというものだ。 「ご馳走様でした!」  その男女はニッコリと笑うと、店を出て浦安の海風に消えて行った。
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