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弁当の空箱をかばんに詰め込んで荷物を纏めるとそれから二時間ほど揺られて目当てのバス停で降りる。
そこは辛うじてちらほらと民家が見えるけれどもほぼなにも無い山の中と言ってよかった。
支払いをするときに運転手が「こちらにはお仕事で?」とやや訝しげに聞いてきたが「ええ、営業でちょっと」と曖昧に答え逃げるように降りる。路線バスの運転手ならそれなりに客層を把握しているだろう。もしかすると気付かれたかもしれないが、引き留められもしなかったのでそれ以上考えるのを止めてその場を離れた。
目当ての【名所】は正式な登山口からは向かえない。なまじ有名になってしまったので登山客なのか少し厳しめの確認が入るらしい。だからだろう、この山には脇道が存在していた。本来あってはならないものだが、怪談や噂話としてその手の界隈で密かに語り継がれている。
ひと目を避けながらもう使われていない仮設トイレの裏の茂みをかき分けると、僅かに踏み固められた獣道のようなものが姿を現す。
ハイになった勢いでここまで来てしまったが、実在せず肩透かしとなる可能性もあったのでまずは安堵する。
これなら首尾よく目的を遂げられそうだ。
獣道を外れると崖や沢に落ちかねないので慎重に進む。そんな自分を俯瞰して思わず自嘲の笑みが零れた。落ちたら落ちたで構わないだろうに滑稽なものだ。まあ、必要以上に痛い思いをしたくないのは確かだ。
もう少し進んだところで俺は足を止めた。ひとが……居る。
学生らしき身なりの少女が道脇の倒木に腰掛けている。布で包んだなにか、いわゆるお包みを大事そうに抱えていた。
赤ん坊だろうか……そう思っているうちに彼女と目が合った。固く真一文字に結ばれた口元に淀んだ瞳。
ああ、彼女もか。
こんなところに居る人間なんて目的はひとつに決まっている。そこそこ険しい道のりだったし疲労で足が止まってしまったのだろうか。
成し遂げた彼女と対面しなくて良かったという安堵と共に、追い越す気まずさも込み上げてくる。
どうする。まさかこんなところで他人に出くわすなんて。
だめだ、決断できない。もうなにも見なかったことにして引き返してしまおうか。そんな思い付きをする自分に更に不安が押し寄せる。ここまで来ておいて逃げ帰るのか。それも彼女を置いて。
彼女が掠れた、力のない声で「この辺りは、危ないですよ」と囁いた。反射的に「ああ、ありがとう。気を付けるよ」と答え、思わず吹き出す。こんなところで出会ったふたりが「危ない」も「ありがとう」もないだろうに、おかしな会話もあったものだ。
なんだか気が抜けてしまった俺は彼女の隣に勝手に腰を下ろした。思えば歩き通しでずいぶんと疲れている。
すぐ傍で見る彼女の肌には少なからぬ痣や古傷の痕があった。
いじめか、いや、年季の入った感じは虐待か。
お包みの中はタレ耳の小型犬だった。鼻と口元に乾いた血がこびりついてもう動き出す気配も無い。赤ん坊でなくて良かったという気持ちと可哀想にという気持ちが同時に湧いてくるが、どちらも決して嘘偽りではなかった。
彼女はなにも言わず、俺もなにも言わなかった。お互い自分語りをされても反応に困るだろう。少なくとも俺は困る。名前も知らない他人だし。
けれども、なんだろう。だからこそだ。
こんなところで並んで座っているのもなにかの縁、彼女の憂さを晴らしてやろうと思い立つ。
俺はじっとこちらを見ている彼女に「その子の仇を取りに行かないか」と提案する。
別に善意でもなんでもない。八つ当たりだ。自分の会社には出来なくても、他人のことだから大きく出られる。
自分と無関係な相手にほど、正義を振り下ろすのは容易い。
目を見開き、逸らし、言葉を発しようとしながら逡巡する彼女に「君はただ、俺が何処の誰のところへ行けばいいのか教えてくれるだけでいいんだ」と囁く。
そう、彼女から見ればこれは俺が勝手にやるだけ。そのほうがお互い気楽でいいはずだから。
少しの間があって、彼女がぽつぽつと話し出した。仇討ちを提案した以上、もう無関係ではないので黙って事情を聴く。
それが終わる頃には日が傾いて、俺の心は夕日のように義憤に燃えていた。来たときよりも更に晴れやかな気分だった。
彼女の手を取って山を下りバス停まで歩く。辿り着いた頃にはすっかり日も暮れていたが、幸いまだバスは残っていた。ふたりして乗り込むとミラー越しに運転手と目が合う。行きとおなじ男だった。
あんたも大変だな。
俺たちは電車に乗り換え日付も変わろうという時間帯にはなんとか彼女の家へと辿り着いた。
道中のコンビニで買った軍手を嵌め、自分で使う予定だったビニール紐をすぐ使えるよう準備を終えると、彼女が玄関の鍵を静かにあけた。
作業は想像よりずっと簡単に終わった。
素人の偽装ではあるがしないよりはマシだろうとベランダから仇を吊し、玄関を出ると彼女が泣きそうな笑顔で待っていた。その肩に軽く手を回して駅とは別方向へと歩き出す。
あてなどないけれども、俺の心は言い知れない達成感で満たされていた。生まれて初めての気持ちだった。
犬を何処かへ埋葬しようと提案すると、彼女は小さく頷いて「そうしたら次は、私の番ね」と、初めて会ったときよりは少し張りのある声で囁いた。
次。
彼女の番。
なんだろうか。
困惑を隠せなかったのだろう俺の顔を見て、彼女が「仇をとってあげる。だから聴かせて」と、唆すように笑みを深める。
彼女が俺の仇をとってくれるらしい。そんなつもりではなかったのだけれども、善行は積んでみるものだ。感極まって「それは素敵だ」と返し話し出す。
俺が愚かだからと思っていた。
俺が悪いのだと思っていた。
でも彼女を観て、聴いて、成し遂げて、俺の意識は変わった。
俺は不満をぶちまけてよかった。
俺は怒りをぶちまけてよかった。
俺は拳を振り上げてよかった。
だから俺は話の終わりに「でも俺にも手伝わせて欲しい」と伝えた。
それを聞いて、彼女も嬉しそうに微笑んだ。
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