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汚れたもの
一時間。
俺の手元で幸運の女神が起きていたのはたった一時間だ。
夢は寝てる時にみるもんだろ?
起きてるなら実現させろよ、大当たりをよ!
「おい気を付けろ!」
「るせえ、てめえの足の管理がなってないんだろ!」
雑踏で肩がぶつかる度に喧嘩を吹っ掛ける。
幸か不幸か誰も彼を相手にすることはなく、いつの間にか母が人生最期のダイブを決行した橋まで来ていた。
別に死ぬつもりは毛頭ないのだが、酔った足が昔の住所へと向かってしまったらしい。
彼は舌打ちすると引き返そうとしたが、橋の欄干で下を覗き込む男の姿を見つけてしまった。
酔いが一気に醒める気がした。
あの日の悪夢がどっと脳裏に流れて来る。
止めようとする自分、叫んでも聞こえず、「自由よ!」と笑う母は、次の瞬間橋の下にいた。
クソ親だけど、嫌いじゃなかった。
父も母もどうしようもないクズだったけど、死ねとは一度も思ったことがない。
ジョージは咄嗟に走り出し、その男の腰にしがみついた。
「馬鹿野郎! こんなとこで死ぬんじゃねえ!」
そのままバックドロップでもしそうな勢いで猛烈に引っ張る。
男は何が起きたのか理解出来なかったのか、一言も発しないまま道に尻を着いた。
「お、お前、こんなとこで死ぬな」
「じゃあ、他の場所ならいいんでしょうか」
呆けたような男の声。自分と同じくらいかもしれないし、もう少し若いようにも見える。
「出来れば他の場所でも死ぬなよ。なんで死ぬんだ」
二人揃って地面に座り込む。未遂の男はどこか見覚えがある気がした。
「もう、もう生きていても……最後の、望みだったんです、手術代の」
ジョージはなんとなく男の話を聞いてしまった。
泥酔から一気に動いたためか物凄い勢いでアルコールが悪さをしてくる。
頭がガンガン痛いし、嘔吐感も込み上げて来る。
それなのに聞いてしまった。今自分が聞かなければ、また欄干の下を目指す気がしたので。
「宝くじ、買ったんです。もちろん仕事もちゃんとしてます。ただ病気を抱えたまま仕事するのはもう辛くて。一縷の望みをかけて、毎月一枚だけ、宝くじを買っていたんです」
嘔吐感が一瞬引いた。
そうだ、宝くじの当選番号が載っていたあの新聞。
あの新聞を投げつけて来た男だ。
「願掛けの意味も強かったから、番号はいつも覚えていて。今回はA1055438。何等だったと思いますか」
知っている。一等だ。
一等十万ドルで、その金は一時間で消えてしまったのも知っている。
「あるもんですね、奇跡ってのは。一等だったんです。貯金と合わせて、手術代にギリギリ手が届くんです」
今度は別の意味で嘔吐感が込み上げてきた。
この男はジョージがスリを働いた男だ。財布から金を抜き取り、その札の隙間に宝くじがあって、美学に反するからとゴミ箱に投げ捨て、あっさりポリシーを忘れ縋った金。
「でもね、財布、落としてしまったんですよ。宝くじの入った財布を。胸がね、ぎゅーって痛くなるんです。それが日に何度もあって、薬も段々効かなくなって」
男はゆっくり立ち上がると、ジョージに手を差し出した。
なんだか立場が逆のような気がしたが、その手を取ると立ち上がった。その時初めて、自分が震えていることに気づいた。
「娘がいるんですよ。残すわけにはいかないなって、頑張ってきたんですけど。もう、限界、かな、って……」
語尾をやっと絞り出すと、男は声もなく泣き始めた。
泣きながら続ける。
「きっと、あなたは神が遣わして下さったんですね。し、死ぬなって。まだやれるって。む、娘の、ため、ためにもっ。も、もう少しだけっ、やってみます」
男は嗚咽にまみれた言葉を残し、そのまま橋の向こうへと帰って行った。
その背中を茫然と見た後、ジョージは橋の真ん中に盛大に吐いた。
アルコール濃度の高い吐しゃ物よりも、自分の方がずっと汚い人間に思えた。
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