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人にやさしく。
亡き母の教えはずっと守ってきたつもりだ。
祐馬は演芸場の客席に悠然と腰掛けて高座を見上げた。
あそこに立つことはもうできない。
それでも構わないと、そう心に決めたはずであった――
◆
はじまりは――そう、演芸場の楽屋であった。
噺の本題に入る前の『まくら』を考えていた。名の知れない新入りの自分をどうしたらお客さんは興味を持ってくれるだろうか。
妙案も浮かばず、少し気が立っていた。
「そのボールペンとオレのボールペンを交換しないか?」
と聞かれたとき、「なぜ?」と思った。
声をかけてきた平野進は同期ではあるけど、それほど仲がいいヤツでもない。
平野が握っていたボールペンと見比べると、自分のはまだ新しく、ちょっと値は張ったが書き心地のよいもので、相手のは3本100円で売っていそうな安物だった。
しかもインクがもうほとんど残されていないことが透明な本体から透けて見えた。
平野は祐馬が断るはずがないと信じ込んでいる。
いや、有無を言わさず交換するつもりだろう。
祐馬は気が弱いわけではないが、相手の要求はほとんどのんできた。
カチンときていても、それは変わらない。
いじられているのか、いじめられているのか、その境界さえも曖昧なほどだが、無駄に言い争うのも好きではないので、祐馬は「いいよ」と相手の要望に応えた。
すると、その様子をどこかで見ていたのか、後輩芸人の南原亜子は平野と交換した使い古しのボールペンがほしいと、こっそり接触してきた。
どうやら亜子は平野のファンであるようだった。いや、もはや恋というべきか。
馬鹿げた要求をしてくる男だというのに、そういうところは目に入らないらしい。平野が使っていたものをほしがった。
どうせ使い物にならないのでくれてやってもよかった。
だが、亜子はタダでもらうのが悪いと思ったのか、なにか交換できそうなものがないか、自分のカバンの中を探った。
整理整頓が苦手なようで、中に入っているものを机の上に積み上げていき、最後に出てきたのが10cm四方のステッカーだった。
「もう、推し変したんですよね」
「ええ? なんだって?」
祐馬はなにをいってるかわからず聞き返した。
すると亜子は悪びれずにいった。
「今は別のグループ推しなんです。わたしはもういらないけど、けっこうレアなんですよ」
「ふうん」
こんな雑な扱いをされているのだから、本当にもういらないのだろう。
よくよく見れば、人気急上昇のアイドルグループの名前が入っている。
そんなに簡単にファンをやめられるものなのか不思議だが、聞いたところでたいした理由もなさそうだった。
「こんなのしかなくて……」
「かまわないよ」
興味はないが、くれるというのだからもらっておくことにした。
それからつつがなく稽古が終わり、誰に誘われるでもなく自宅へ直帰した。
復習でもしておこうかと、カバンからノートを取り出す。
ぽとりと、ステッカーが一緒に出てきて机に落ちた。
家に帰るまでそのことはすっかり忘れていて、ちょっと驚く。
そのとき、ノックもなく同居している姉が押し入ってきた。
「おい。勝手に入ってくるなよ」
「カッター持ってない? ……あれ、これレアなやつじゃん!」
姉は目ざとくステッカーを見つけると手に取った。
レアだと知っているくらいに、姉はこのグループのファンであるようだった。
そういえば、このグループは当初、地下アイドルとして活動していた。
まだ有名ではないころに販売されていたグッズだとするなら、数も少なくて手に入りにくく、ファンにとっては価値があるのかもしれなかった。
「どうして持ってるの? あんた、興味あったっけ? まさかわたしのためにもらってきたわけじゃないよね」
姉は矢継ぎ早にまくし立てる。
「知らないよ。物々交換しただけ」
「じゃあ、わたしとも物々交換しようよ」
「なにをくれるの?」
「そうだな……」
姉はいったん部屋を出るとすぐに舞い戻ってきた。
手にしていたのはバックパックだった。
何年か前にほしかったものだ。でも、売り場にはその色が1つしかなく、姉もほしがったので、もめたのだ。
母はお姉ちゃんなんだから譲りなさいといったが、父は色が赤なんだからお姉ちゃんの方が似合っているといい、結局姉が買ってもらったのだった。
「これ、ほしがってたじゃない」
姉はそういうが、もう古くさくて普通に使えない。だからこそ姉だって迷いもせずにこれを持ってきたのだろう。
ただ、このステッカーもフリマアプリなどで売るにしても、発送とか考えただけでも面倒くさくて、どうでもよくなってきた。
渋々といった表情を見せながら交換してやった。
姉は喜んでここへやってきた目的も忘れて出て行った。
受け取ったバックパックを見ると、ほとんど使用していないようだった。
ファスナーを開けて中身をあらためる。
内側のポケットに鉄道のフリーパスが入っていた。
日付を見て思い出す。
ああ――あの日だ。
姉はこの日遊びに行く予定だったが、母が事故に遭って中止したのだった。
母はH山で車同士の衝突事故に遭い、車から投げ出されて斜面を転がり落ちたらしかった。
雨が降る日で、川も増水しており、谷底に落ちた母は荒れ狂った川に流されてしまったというのだった。
そして、ついには見つからなかった。
投げ出されたのは母ではない別人ではないかとも期待した。
しかし、車に残された手荷物は母のものだった。祐馬が贈った落語の公演チケットが財布に入っていた。
あのとき、祐馬が誘わなければ、母はあの事故に遭わなかったかもしれない。
これは、何か導かれているのではないかと思った。
今、このタイミングなのだ。H山に行って母を弔う。そうすべきだと。
母はもういない。
現実を見なければ。
そう思い立つと、姉から譲り受けたバックパックに、非常用のリュックから取り出した非常食を詰め込んだ。
もしなにかあっても少しはしのげる。
祐馬はH山に登った。無謀だという気はしなかった。
だが、霧が立ちこめてくるとさすがに弱気になった。
慣れない山道でどこを歩いているのかもわからなくなる。
ひたすらに、これであっているだろうと歩みを進める。
すると、前方に人影が見えた。木の根元でうずくまっている。
「大丈夫ですか」
声をかけると男は顔を上げた。若い男だった。生気を失い、明らかに助けが必要そうだった。
「なにか飲み物を持っていないか?」
男はすがるような目つきで訴えかけてくる。
もちろん持っていた。飲みかけのスポーツドリンクに、ミネラルウォーター。ようかんと、水を入れるだけでわかめご飯ができる非常食も。
だが、この男にあげてもいいものか。
自分もこの先遭難して必要になるのではないか。
迷いが伝わったのか、男は自分の持っているバッグと君のバッグを交換しようと持ちかけた。
男は汚れたボストンバッグを大事そうに抱えていた。
そのファスナーを開けて中身をこちらに見せる。
一万円札がぎっしり詰まっていた。
「これは足がつかない金だ。それを知ってて仲間と盗んだ。でも、この金の持ち主とは知り合いなんだ。誰が盗んだかもわからないことになっている。だからすぐに使うわけにはいかず、ほとぼりが冷めるまでここに隠しておこうってなった。だけどオレは信じられなかったんだよ。持ち去られるんじゃないかと疑ってひとりやってきたが、このざまだ。死んだらなんにもならない。だから、助けてくれ」
その大金と100円もしない水とを交換しようというのか。
生死をさまようとはそういうことなのか。
祐馬は腹をくくった。
この金を持って下山する。
この金は、この男の命の代金だ。
もし自分も生き延びて下山できたなら、助けを呼んでやればいい。
祐馬は男のボストンバッグと自分のバックパックを交換し、そそくさとその場を立ち去った。
もうどのくらいさまよったのか。
相変わらず霧は晴れない。不思議と上っているのか下っているのか、その感覚さえわからなくなってきた。
道なき道をしばらく行くと、どこからともなく男が現れた。
ひどく痩せこけている。頬はこけ、目はくぼみ、異様なオーラをまとっていた。
「私は死神だ」と男はいった。
「なんの冗談だ」
祐馬がいうと男は薄く笑った。
「私は死神に飽きたんだ。おまえの命と私の命を交換しよう」
「そんなことができるのか」
なおもいぶかしげな祐馬を見ても、男は黙ってうなずくだけだった。
祐馬はそっと息をついた。
「ふうん。それもいいかもな」
祐馬がいうやいなや、死神と名乗る男は目にもとまらぬ早さでこちらへ突っ込んできた――かと思うと、一陣の風が吹き抜けたような風圧を感じ、次の瞬間には霧まで晴れ、視界が開けていた。
目の前にはボストンバッグを抱えた自分がいる。
「私はおまえとこの大金を引き継ぐ。今からおまえは死神だ」
と、祐馬の姿をした死神がいった。
「死神とはなんだ」
と、聞き返す。
目の前の人間は得意げに言い放った。
「人の命を奪う者のことだ」
「そうか――おまえが奪ったのか。ならば、一番最初におまえの命を頂こう」
「なんだって?」
「母の敵を取るんだよ」
こうして物々交換は終焉を迎えたのだった。
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