僕は僕の全てで

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僕は僕の全てで

『貴方の音色に、私は人生を変えられました。貴方が奏でる音楽は、どこか物悲しくて、世界の深くを見つめているようで、一見真っ暗で。それでもその中に、きらめく何かがあるような気がして。私は、その確かな光に惹かれたんです。  友達の知り合いが出るからと連れてこられた演奏会で、貴方の音色を初めて聴きました。音楽の良し悪しについては無知な私ですが、貴方の演奏の素晴らしさは分かります。心が、そう言っていました。多分、貴方の感性そのものが、私の心に響いたんだと思います。SNSに投稿されている過去の演奏を含め、ここ数カ月は、ずっと貴方のバイオリンを聴いています。  特に言うべきことでもありませんが、私は視覚障害者です。先天的に、目が見えません。必然的に得られる情報が限られている、というのもあるかもしれませんが、音色に込められた感情、というんでしょうか……すみません、上手く言い表せないです。とにかく、私は貴方の心に惹かれました。貴方の音色が、貴方の心の美しさが、私は大好きです。これからもずっと応援しています。どうかお体に気をつけて、今後も頑張ってください。 神永透子』  無彩色の日々を生きる僕のもとに、ある日送られてきた、一通の手紙。  言ってしまえば、それはファンレターだった。  僕はその文面に目を落とし、誰もいないリビングで絶句した。この便箋は、本当に僕に宛てられたものなのだろうか。こんな無名なバイオリニストが手紙をもらえる世界線なんて、あるはずがないのに。嬉しいという感情もなく、浮かれることもなく、ただ「あり得ない」というのが率直な感想だった。  僕は一応、音大に通いながらアマチュアの演奏家をしているけれど、有名なコンクールで入賞したことがあるとか、そういう訳ではない。    何より、僕は天才じゃない。僕が一番、そのことを知っていた。「そこそこできる」止まりの表現者ほど、情けないものはないのだ。その先に進めないと、表現する意味さえ為さないのだから。  明朝体で印刷され、整った文字の羅列。本当に僕の演奏が、この人の心に届いたのだろうか。半信半疑のまま、手元の封筒を眺める。薄水色の綺麗な封筒に印刷された、「佐々木弓弦様」の文字は、変わらずそこに在るだけだった。    どこか疑いつつも、その言葉を真に受けることにした僕は、神永さんに手紙を返した。まるで、有名な俳優にでもなったかのような錯覚。自分がして許されることなのかは不明だが、それが本当のものならば、真摯に応えたかったのだ。長々とした文章で感謝を綴り、駅前の赤ポストに投函した。  その日の授業は、最悪としか形容できないものばかりだった。授業では度々怒られ、夜にかけて気持ちは沈んでいく一方。もうすぐコンクールだからか、先生たちの指導はいつもよりも格段に厳しい。少し間違えただけで視線を集めるし、胃は痛くなるしで、もはや演奏どころじゃなかったのだ。  授業終わり、僕は友達の紺野と近くのお店に来ていた。 「あのさ、紺野」  僕は、ファンレターが届いたことを彼に話した。驚きつつも話を聞いてくれた紺野は、僕のことを羨ましがっていた。 「これ、なんだけど」  渡した便箋をゆっくりと開き、目を通していく彼。 「本当に僕宛てなのかな」  紺野はしばらく沈黙を貫き、数分後に口を開いた。 「知ってる、この人」 「えっ!?」  どうやら驚いたことに、神永さんが言っていた友達の知り合いは、紺野だったらしい。おそらく同じコンクールに出ていた時、その二人が一緒に見にきていたのだろう。 「どんな人か、分かる?」 「いや。目が見えないってのは聞いたことあるけど、会ったことないし」  そっか、と返事を零す。  ダメ元で会えないかと頼んだところ、交渉をしてもらえることになった。  純粋に僕の何がよかったのか、それだけが知りたかったから。  話に一段落がつくと、紺野は突然大きなため息をついた。 「弓弦。俺たち、なんでこんなずっと楽器やってるんだろうな」  本当、狂ってるよな、バイオリンに支配されてばっかりで。そう、紺野の瞳は訴えていた。 「……うん」 「お前は、何のためだと思う?こんなに毎日必至で練習して、報われたためしないじゃん」 「……っ、そう、だね」  中高の記憶が蘇り、人生を全否定されたような心地がした。 「俺はさ、ずっと誰かに感動を与えたいと思って生きてきたんだよ。誰かを救いたいと思って生きてきたんだよ。音楽で人を救うなんて、簡単なことじゃないのにさ」  苦痛で顔を歪ませた紺野を、僕は何も言えずに見つめていた。店内の脂っこい空気がまとわりついてきて、余計に気持ちが悪くなる。グラスの水を、急いで喉に流し込んだ。 「報われないよな。この後どうすんだろ、俺たち。プロなんてもう目指せるわけないよな」 「もしかし、たら……」  もしかしたら。もしかし、たら。あるかも、しれないよ。僕はそう言おうとした。 「は?」  紺野は瞳の奥を真っ暗にして、絶望的な口ぶりでものを言った。  引きつった頬が上手く笑ってくれなくて、冗談だよとは言えなかった。  ◇  紺野の知り合いが手配してくれたおかげで、週末に神永さんに会うことが決まった。実際、優しい人だった。あまりにも。終始僕のバイオリンへの愛を語ってくれて、こちらが気圧されてしまうほどだった。  そして数日が過ぎ、僕は神永さんを透子と呼ぶようになった。  本当に、安直かもしれない。好意を抱かれたからには返そうと思ってしまう、そんな法則がはたらいただけなのかもしれない。  それでも、僕は彼女の笑顔に魅せられてしまったのだ。そう、彼女の心に。  ◇  ついに、コンクールの日がやってきた。  周りの学生がみんな参加する、中規模のコンクール。普段親しくしている友人も、ステージの上ではただの敵だ。本番前の雰囲気は、過去最高に張り詰めていていた。  リハーサルが終わり、もうすぐ本番という時刻。  僕は柄にもなく立ち上がり、紺野のところへ向かった。 「あのさ、前、何のためにバイオリンをやっているのか、みたいなこと訊いたよね」 「え、あ、うん」  突然早口でまくし立てる僕を見て、紺野は怪訝そうな表情をした。 「僕、透子のために弾くから」  紺野は薄笑いを浮かべた。僕は、手に持っていたペットボトルを強く握りしめる。べこん。間抜けな音が、静かな部屋中に響いた。 「は?少し褒められたくらいでいい気になるなよ。そもそもあの子は、優しいんだろ。お世辞だと思わなかったの?俺ら、何の賞も獲ったことないんだよ」  その通りだと思った。  少し良い言葉をもらって、少し褒められて。今までの人生を、生きてきた道を、人格を肯定された気がして、一人で喜んでいただけだ。  でも、それでも。  僕はもっと彼女のために、音を奏でたいと思ってしまったんだよ。 「そうだね。そうかもしれない」 「は?」 「僕、必死で弾くから」 「……」 「負けたくないなら、紺野もね」    らしくない、と思っただろう。僕もそう思った。紺野は目を丸くして、そこに立ち尽くしていた。  茜色のスポットライトは、思ったよりも眩しくはなかった。  生まれつきの身体のこと。  僕のバイオリンに感銘を受けたこと。    彼女は、僕に多くのことを語ってくれた。  辛い過去と、優しい微笑み。僕は彼女を、救いたいと思った。      救いたいなんて、そんなのただの自己満足かもしれない。  それでも僕は、届けたかった。精一杯の僕を、彼女に知って欲しかった。  そのためには、ただ弾くしかなかった。  言葉をなぞるだけじゃ、過去をなぞるだけじゃ、もう駄目だ。人の芸術を模倣するのも、もう終わり。技術だけじゃ、駄目なんだよ。心からの想いで、僕の全てで。  僕は。僕は。僕は。僕は僕の音色で、彼女の心を殴りたかった。彼女を変えたかった。彼女の神様になりたかったんだ。  それがただの理想でしかないということも、知っていたけれど。それが叶わないということも、分かっていたけれど。  ステージ上で奏でた五分間は、たった数秒ほどに感じられた。    結果待ちの状態で、僕は客席で彼女に会った。 「すごく、すごくよかった」  額に汗が滲んだまま、彼女の方を向いた。目を瞑り、口許をやわらかに動かす姿が美しかった。 「私ね、貴方の音色に出会ってから、もっと生きたいと思った。優しさで心が満たされて、他でもないこの世界で生きないといけない、って。救われたの。私にとって、貴方は神様だったから」  嬉しかった。届いたんだ、僕の音色は。  でも、最後の言葉だけは。  それだけは、違うんだよ。 「僕の演奏が、透子に届いたのは嬉しい。本当に、嬉しいんだ。今まで報われない生活をしてきて、誰にも評価してもらえなくて。でもこれまでずっと音楽を続けてきてよかったなって、そう思った」  でもさ、と僕は呟く。 「僕は、神様じゃないんだよ。僕に、人を救うほどの力はない。こんな僕を神格化しちゃ、駄目だよ」 「僕の心が綺麗とか、そう言ってくれたけど、実際はそんな綺麗なものじゃないんだ。本当は汚れてて、濁ってて、もっと愚かで。僕は僕の音で、きみを救えたのかもしれないけど。そうだったら、僕は嬉しいけど。でも、きみの心を救ったのは、きみ自身じゃないかな」 「うん、そうかもしれない」  彼女は即答した。 「確かに神様では、ないのかもしれないけど。それでも、神様みたいだった。私は確かに、貴方に救われたの。貴方の、透き通った音色に」  彼女が僕を抱き寄せて、耳元でそう囁いた。彼女が笑っていた。花びらが零れるみたいな微笑みだった。ステージから仄かに照らされた茜色に、頬が染まっていた。  もうすぐ受賞者発表だ。もう、戻らないといけない。  僕は、最後にもう一度言い直すことにした。今、一番伝えたいこと。  神様にはなれない、愚かな僕のままで。そのままの僕で、彼女を照らし続ければいい。彼女の人生のバックミュージックに、僕の音色を。   「僕は、神様じゃないよ。それでもいいから、音を届けたかった」
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