【良木・1】

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【良木・1】

     【良木・1】  一の酉の今夜、ダウンジャケットにはまだ間があった。  仕事の材料を得ようとやってきたO神社。  この宮に決めたのは、自宅から電車で一本、大学からも一回の乗り継ぎでこられる手近な場所、という理由以外になかった。  威勢のよい声の間に挟まれる手締めの音、拍子木の()を聞きつつ、きらびやかな大小の縁起熊手を眺めながらゆく足は、にぎわう祭り客で速めることはできない。だが、非日常的な華やかさで満たされた空間の及ぼす昂揚感が、いら立ちなど起こさせはしなかった。  祭りが楽しませるものは視覚、聴覚だけではない。  隙間なく連なる屋台から流れ出る多種多様な香りは、統一性がなくとも、否応なく食欲を刺激する。  人波に歩調を合わせながらのその嗅覚が、ふと浮かべた。  煌々と明かりをともす幾多の協賛提灯の下、往き来するざわめき、人いきれは途絶えなかったとしても、この、年に数度しか味わえない、辛味甘味渾然とした香りがもしなければ……。  想像はすぐに答えを出した。―――祭りの風景は成立しない。  出たのは、腹の虫の鳴き声もだった。  音自体は喧騒にかき消されたが、体内では多いに反響され、急激に空腹が押し寄せた。  材料も得られ、非日常も十分堪能した―――。  そう自身を検め、帰路へと足を向かせた。  駅やバス停へ向かうのとは逆方向の、裏参道へ歩の舵を切ったのは正解だった。人混みは一段落ち着き、牛の歩みもいつしか解消されていた。  帰りはタクシーでもいい。足に疲労を覚え始めていたときから考えていた。所詮、財布を気にするほどの距離ではない。  小ぶりな熊手を持つ女性の後ろをゆきながらのこっちの参道は、表参道よりも道幅が狭いためか、屋台は片側にしか並んでいない。高木が繁る逆側は、裸電球の明りによって、普段の同時刻にはすでにつくられているであろう闇を浅くしている。  せっかくだから自分も購入しておくべきか……。  久しぶりに訪れた酉の市ゆえの頭がつと囁いたが、熊手屋の盛大な声はもう近辺にはなく、後戻りする気力もわきそうになかったので、「家内安全・商売繁盛」は来年に持ち越そう……と決めたときだった。  表参道のものよりも遥かに小さな鳥居を目前にした視線の隅が、屋台とは質を異にする一角を捉えた。  テント―――。
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