37人が本棚に入れています
本棚に追加
あの小屋は、誰もが見えるというものではなかったのかも……。
言い換えると、わたしは見世物小屋に入る資格を持った、数少ない人間だった。
『どういう人が見えるのかしら~?』
静乃の声が続いた。
わからない……。さっぱり……。
わからないことはもう一点。
なぜ父だったのか……。
ただ当時、さんざん思考をめぐらした末に、一つだけ、不確かながらたどり着けた答えはあった。―――現在の父との関係性。
高校に入ってわずかもすると、父はいってきた。
将来は自分の会社を継いでもらう。だから経営方面が優秀な大学へいけ―――。
経営など興味がなく、進みたい大学もしっかりあったわたしは、猛反発した。
とくに生活態度にうるさいわけでもなく、何事も自由にさせてくれていた父だったけど、この件に関してだけは譲らなかった。
「自分の好きな道へいけないのは人権の無視!」
「日本には職業選択の自由が保障されている!」
「わたしはお父さんの奴隷なの!?」
張りあげた声で幾度となくぶつかった。
まったく口を利かない期間もあった。
だから、あのころ思っていた。―――父がいなくなってくれれば……。
父の死は、両大学の願書提出期限まで一月ほど、というときでもあった。
それだけのことでいなくなってほしいと思うなど……。と、眉をしかめる人はいるかもしれない。でも、わたしには重大問題だった。
結局は、自分の希望通りの大学へ進めた。それにはもちろん、うちの経済的事情の手助けがあったことは承知している。
立派な家。
裕福な暮らし。
それはまず間違いなく、今後一生保障される。
なので、その点に関しては父に感謝している。
しかし、裕福さには一方で、精神的つらさという税もかけられたことがあった。
小学校は地元の区立。
広い部屋と庭、多数の遊び道具。おやつも豪勢だった自宅は、低学年のころ、放課後の遊び場として人気だった。
「お金持ちでいいな」
みな口をそろえた。
でも高学年になるに従い、その言葉に、ねたみ、やっかみの色が乗るようになり、わたしと放課後をともにする子は徐々に減っていった。
そしてしまいには、ひとりもいなくなった。
嫉妬心など持っているとは思えなかった友人も離れていったのは、
須田さんとつき合っていると、自分も仲間外れにされる―――。
に気づいたからに違いない。
最初のコメントを投稿しよう!