【浦川・1】

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【浦川・1】

     【浦川・1】  七月頭の汗ばんだ躰を、あの店へと向かわせた。  いつしか白由(しらゆう)が丘の街へ出てきた際、用事を済ませてからの、これは慣わしとなっていた。―――とはいえ、ふり返ってみると、それはまだ五度ほどではあったけれど。 《喫茶992》  未だなんと読むのかわからない。 “きゅうきゅうに”か? “きゅうひゃくきゅうじゅうに”か? それともほかの呼称があてられているのか……。  店のスタッフに訊けば一発だけれども、特段解明したいとも思ってもいなかったので、問いを投げたことはなかった。そもそも、訪れる目的はゆっくりするため。店のスタッフと会話を持とうという気もなかった。  また、来店回数を重ね、店側もわたしの顔は覚えたでしょうが、それでも向うから雑談を持ちかけてくることなどもなかった。そこがあの店を気に入っている一因でもある。  緑道に流れたそよ風の心地よさが、はじめて《992》と出逢った日のことを、自ずと持ち寄った。  今日と同じく、この街へ買い物に出向いたときだった。  繁華街の人いきれでの疲労が、二本の路線が交差する白由が丘駅の極まりない混雑へ戻る気力を失わせていた。それゆえに頭は、各駅停車しかとまらない隣駅からの帰路を選択し、白由が丘の街を横切る緑道へと足を運ばせた。この道をゆくと、まわりがほとんど住宅街の様相の隣駅にいずれ着く。そう近い距離ではないが、歩けないほどでもないことは知っていた。  繁華街から遠ざかるほどに、緑道の人影も少なくなってゆき、両サイドの風景も、店舗群から住宅街へと変移していく。  そのままぶらぶらと歩き、隔てられたポールで歩行者と自転車のみしか通れない小さな踏切を渡ると、ほどなくしてあの店はあった。  オーク材らしき深い茶色のドアの両横にシャッターつきの窓を侍らせ、二階にも二つの出窓を並ばせる白いモルタル塀の建物は、置き看板などの宣伝物も出ておらず、一見、普通の住宅だった。  立ち並ぶ戸建の間のそんな建物へ向かって足が緑道を外れたのは、ただ単に、ドアまわりに敷かれたレンガ意匠の段差の上の、綺麗なシクラメンの鉢植え二つに惹かれた、という理由からだけだった。  保養を終えた目はすると、ドアの横にこぢんまりとした木板を捉えた。それに記された《喫茶992》の黒文字で、はじめてここが喫茶店であることを知った。
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