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10 新しい自分◆
どんなに辛いことがあっても、時間は皆平等に流れる。暗い夜もいつかは終わって、誰かが待っていた朝が来る。
そう教えてくれた母は、実際のところ、ララではなく自分に言い聞かせていたのかもしれない。
「おはよう、マドレーヌさん!今日からしばらくよろしくね。いきなり手伝いたいなんて言ってごめんなさい、助かるわ」
まだ明るい店の中で飲み屋の女主人であるマドレーヌの顔を見るのは不思議な気分だ。働き出すにしても、世間知らずも良いところなので、ララは最近行き付けの店である飲み屋で少しの間身を置かせてもらうことになった。
「助かるのはこっちだよ。無賃で良いなんて言うけどそれじゃあアタシだって気分が悪い。少ないがちょっとは給料払わせておくれ」
「もう、本当に要らないのに。だって私ったら卵も上手く焼けないような人間よ?猫の手でも借りた方がまだマシかも」
「猫はそもそもフライパンが持てないよ」
「ふふっ、たしかに!」
あまり愛想が良いとは言えないマドレーヌだが、この店の常連がそんな彼女の飾り気のないところを好んで集まっていることを知っていた。
上辺の会話が苦手なマドレーヌを信用して、ララも店に入り浸るようになった。若い女が一人で夜にウロつくとなると、その背景を無遠慮に知りたがる人間が多い中、職人気質な店主は何も聞いてこなかったから。
「そういえば…… この間は驚いたよ。王宮の衛兵たちが飲みに来てた日があったろう?アンタが急に出て来て、みんな追っ払っちまうなんて」
「知り合いに似ていたの。それに、自分の馴染みの店が好き勝手に悪く言われるのは見てられなかったわ。また来たら次はジョッキを頭に投げてやろうかしら」
「やめときなァ。傷害罪で捕まるよ」
「目に見えない傷ならいくら負わせても捕まらないのに、他人に分かる傷が付いたらそれは罪になっちゃうのね」
「………?」
不思議そうに首を傾げるマドレーヌに「なんでもない」と笑顔を返して、ララは厨房に引っ込んだ。調味料の残量をチェックして、不足しているものは備蓄棚から補充する。
店が開店する何時間も前からマドレーヌが仕込みを始めることは客であるララからしたら驚きだった。自分の知らない場所で、世界はこんな風に回っていたのだと。
ディアモンテ公爵家でもない、王宮でもない、誰も自分を知らない場所で新しく始めた生活をララは気に入っていた。
強い香水の匂いに嗅覚を奪われることはない。
ドレスの美しさを品定めされることもない。
聞こえよがしに囁かれる噂話、品のない男たちの視線。他人の幸せには中身のない同調をして、不幸な話になると水を得た魚のように身を乗り出す。婚約破棄なんてものは格好のエンターテイメントで、何処でいつ誰がその不幸に見舞われたか、理由は何なのかといった内容を朝から晩まで皆楽しそうに話し合う。そんな貴族たちの付き合いが、ララは苦手だった。
そして何よりも、フィルガルド。
朴念仁の方が幾分かマシだろうと何度も思った。婚約者だったフィルガルド・デ・アルトンは、水の流れを読んで泳ぐ器用な魚みたいな人だった。皆が右へ泳げば右へ。左へ泳げば左へ。
彼自身きっと気付いていなかったのだろう。
自分が泳ぐ水が澄んだ海なんかではなく、汚く濁った水溜まりに過ぎないことに。もしくはずっとそこに居続けて感覚がおかしくなったか。
何れにせよララには我慢出来なかった。
だから今、この場所に居る。
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