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11 無知の知◇
知っていることと、知らなかったこと。
天秤に掛けたら後者に傾く。
ララとフィルガルドが婚約したのは半年ほど前の話。ぬかるみに馬車が嵌った際に助けてもらった礼として食事に誘ったのをきっかけに、何度かの逢瀬を重ねた後のことだった。
別段驚く素振りも見せずに、ララは静かに「承知いたしました」と答えた。今思えば婚約の申し出に対して返す言葉としては、やや感情に欠ける。まるで受け入れることが務めなのだとばかりに。
「分からないんだが、」
フィルガルドが突然発した声に、若い衛兵は肩を上げて驚いた顔を向けた。
「ど、どうしましたか?」
一度咳払いをして、さもどうでも良いことのような顔を取り繕って口を開く。浅い考え事がうっかり溢れた時みたいに。
「女性は意中の男性から婚約を申し込まれたら、いったいどんな返答をするんだろうな」
「えぇっと……すみません、僕はまだ女性とお付き合いをしたことがないもので。きっと殿下の方が詳しいと思いますが……」
「想像で良いから考えてみてくれ」
尚も詰めると困ったように眉を下げて男は目を白黒させる。やがて意を決したようにムンと拳を握ってフィルガルドを見上げた。その様は小さな仔犬が何かに立ち向かう姿に似ている。
「たぶん……たぶんですが、喜ぶんじゃないでしょうか?好意を寄せている相手からの告白ほど嬉しいことはないと思います。特に、女性にとって婚約は特別な意味を持ちますし」
「そうか。じゃあ、もしも女性が婚約の申し出に対して“承知した”と返す場合は、どんな気持ちなんだ?これも一種の照れ隠しのようなものか?」
「あっ、それは違いますね。以前友人の妹がかなり歳の離れた貴族に嫁入りしたそうなんですが、その娘は泣きながら“承知しました“と答える他なかったそうです。受け入れざるを得ない望まないプロポーズは、女たちからしたら悲劇でしょうね」
「………は?」
フィルガルドの返事に、若い衛兵は「経験の浅い僕が持論を語ってすみません」と焦ったように言い添える。しかし、そんな謝罪はほとんど頭まで回っては来なかった。
望まないプロポーズ。
鈍器のように重たい言葉がフィルガルドの中でドプッと闇に沈む。そうだ、あの日、ララは笑顔を見せただろうか?生涯を共にしたいという申し出を彼女はいったいどんな顔で受け入れた?
どうして信じて疑わなかったのだろう。
婚約の前の出来事を振り返ってみる。
ディアモンテ公爵家に伺った日、善人そうな公爵夫妻を前にして、フィルガルドは何も感じなかった。強いて言うなら、ほぼ全ての会話の受け答えは公爵によって行われ、ララと夫人が終始口数が少なかったことは気になった。また、公爵家にも関わらず、母と娘はまるで下級貴族のような服装をしていたのも不思議だった。倹約家なのだろう、と勝手に納得をしたのだが。
婚約している間も、ララの様子は何ら変わらなかった。紹介したフィルガルドの友人たちとも、上手くやってくれていると思っていた。ララから何かを相談されることはなく、それは彼女が現状に不満がないことを意味していると考えたから。
「僕は……とんでもない勘違いをしていたのか?」
「え?」
キョトンとした顔をする兵士を見つめる。
呆然とする頭にスイッチを入れて、以前聞いたはずの男の名前を記憶から引っ張り出した。
「オリバー、少し出掛けたい」
「どちらまでですか?馬車の手配をいたします」
「行き付けの店があるんだ。ここのところ忙しくて顔を出していなかったが、信頼出来る相談相手がそこに居る。今すぐ話を聞いてもらいたい」
「承知いたしました」
その答えは、いつかのララの返事と重なった。
こうやって命令の一つとして彼女は受け入れたのだろうか。自分の意思ではなく家のため、もしくは王太子であるフィルガルドの面子を守るため。それならば最初から、そこに愛などあるはずがない。
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