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09 はじまりの日◇
ここのところ毎日、同じ夢を見る。
去って行った婚約者が戻って来る夢。
「どうした、考え事か?」
「………すみません。そのようです」
「他人事みたいに言うんだな。兵士たちが話しているのを聞いたぞ、王子は失恋で心を痛めてるってなぁ。お前もこんな嘘がついて回るようでは同情するよ!」
上を向いてガハハハッと笑い飛ばした国王は、一言も言葉を返さないフィルガルドに目を落として「まさか違うだろう?」と問うた。先ほどよりも疑いを含んだ、少し低めの声で。隣に座る母もまた、膝の上に抱えた猫を撫でながらこちらを見遣った。
フィルガルドは手に持ったナイフをカトラリーレストに戻した。ただでさえ食欲がないのに、こんな話題なら尚更食が進みそうにない。
「執務に影響はありませんよ。少し眠りの質が落ちている程度です」
「まさか、婚約破棄のことを引き摺っているのか?代わりの令嬢なんて腐るほど居るだろう。それこそガルーア公爵の娘はどうだ?年齢も近かったはずだ」
「………まだ、そういう気分では、」
「興味がなさそうな顔をしていた癖に、手が届かない場所に行ったら気にするんだな。昔からお前はそうだったよ。他の者が玩具を取り上げてから、それが大事だったと泣き出す」
「興味がない?」
フィルガルドは目を丸くして、ナプキンで口元を拭う父の姿を見つめる。父親の述べた見当違いな意見がつい引っ掛かった。
「だって、そうだろう。婚約してから半年が経つがお前たちが二人で出掛けたことがあったか?手紙の一通でも送ったか?どうせ、いつ何処で出会った相手かも覚えていないんだ」
「覚えています」
「ほう?」
「それは、はっきりと覚えています」
父はこの話にさほど関心がないようで、黙り込んだフィルガルドを気にする様子もなく食事を続けている。メイドに白ワインのおかわりを頼む赤くなった横顔を眺めながら、他人からはそう見えていたのかと内心驚いた。
ララ・ディアモンテと出会った日のことを、まるで昨日のようによく覚えている。
あれはまだ雪の残る一月の寒い朝で、フィルガルドはその日も友人のポールと夜通し飲み明かしていた。確か仲の良い友人のうちの一人の誕生日を祝うためだったと記憶している。
日が昇ったしそろそろ帰るかと呼び付けた馬車が、最悪なことに前日の雨でぬかるんでいた場所に嵌ってしまった。
当分寝床に着けそうにない、と痛む頭に片手を当てて御者が試行錯誤を繰り出す様を窓から見ていたところ、若い女の声が聞こえてきた。女は御者と少しの間言葉を交わして、次の瞬間ガタンッと大きく揺れたかと思うと馬車はぬかるみを脱したようだった。
不思議に思ったフィルガルドが双眼を向けると、泥に汚れたスカーフを持ってペコペコと頭を下げる女を見つけた。どうやら女は自分の持ち物を犠牲にして車輪を押し上げたようで、さすがに申し訳なく思って自らその名前を尋ねた。
それが二人のはじまり。
忘れもしない、フィルガルドの世界にララ・ディアモンテという存在が棲みついた日。
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