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「ぶっころしてやる」
「それは『蹴り技で来い』……ね」
低く渋い声のゴツく太った黒髪短髪の清掃員に、ガタイの良いスーツ姿のメガネをかけた金髪女史は鈴の鳴るような奇麗な声で暗号の意味を返す。
試合前日、プロレスラーである男女『ガンボルド』と『ヴァネッサ』はヴィジネス・ホテルの一室で綿密な打ち合わせをしていた。
清掃員に変装したガンボルドは立ったまま、試合中とは全く逆の静かな声で話す。
メガネにOL姿の馴染まないヴァネッサは、金髪に手櫛を入れながらシングルベッドに腰をおろし聞いている。
試合中ガンボルドの声は、やたらとうるさい。
それは演出の意味もあるが、それだけではない。その叫びは、試合中に使う暗号としてヴァネッサに伝えるためのものだった。
それは二人だけが理解する、プロレスの筋書きだった。
「そうだ『ぶっころしてやる!』って俺が叫んだら、それは『蹴り技でこい』って意味だ!」
ガンボルドは声量をおさえつつも興奮気味に言いながら、体を大きく動かし繰り返し確認する。本番でミスは許されない、事前準備は念入りに行う、それが彼の信念だった。
ヴァネッサは真剣な表情で頷きながら、次に来る言葉に耳を傾ける。
「で、『このクソボケが!』って俺が言ったら、それは『技を派手にくらってくれ』ってことだ。ああ、分からないように手加減はする、心配するな。ファンが盛り上がるように、思いっきりリアクションしろよ」
「ええ、わかったわ。でも手加減は無用だから……」
「よく言った、それでこそ俺が認めたプロフェッショナルだ」
ニヤリと笑いガンボルドは両手を広げ、ベッドに腰を下ろすヴァネッサに襲いかかろうとするジェスチャーを取った。
受け入れるように彼女もウィンクをすると、ガンボルドは更に興奮し空中にパンチとキックをブォンブォンと何発も打ち込んだ。
「アバズレ!」
目を見開き表情豊かにそう言うと、また派手な身振りを交えて説明を続けた。
「『上手くよけろ』って意味だ。俺が攻撃を仕掛けるから、お前はスレスレで避けてくれ。カウンターで技を返してくれてもいい、ギリギリの勝負を演出しな」
ヴァネッサは暗号を頭の中で整理しながら、ガンボルドが眼前で披露する技のタイミングを覚えていく。
試合中に彼がどんな言葉を叫んでも、それが二人の合図として機能し、観客には気づかれることなく、見事なパフォーマンスを演じることができる。
ヴァネッサの目が確信の光を帯びる。
「ヴァネッサ……これで俺たちの試合は完璧なものになる。ファンに最高のショーをプレゼントできるぜぇ、はっはっはっは」
悪役レスラー・ガンボルドはこらえきれず大声で笑う。満足げに口角を引き上げると、冷蔵庫からペットボトルのウーロン茶を取り出し飲み干した。
迎え撃つヒロインであるヴァネッサもベッドから立ち上がる。
「もちろんよ、ガンボルド」
片手でメガネを持ち上げると艶めかしい視線を返した。
□
老若男女の観客500人を収容したホールは、前座の試合が消化されるにつれ狂気を帯びた熱気に包まれていた。
ファンの叫びは絶叫になり、振り上げる拳は竜巻となり、踏み鳴らされる足踏みは巨大な地響きとなっていた。
しかし、ヴァネッサの登場は一瞬で観客を静まり返らせた。
入場口から現れた彼女の体は、しなやかな筋肉によって美しい曲線が強調され、しかしその肌は艶やかで、日々の鍛錬によって磨かれ輝きを放っていた。
衣装は魅力をさらに引き立てる。赤のレザー素材で作られたトップスは、彼女の豊かな胸元を大胆に強調しつつ洗練された印象を与える。
ハイウエストの黒いショートパンツは、彼女の長くしなやかな脚を一層引き立て、引き締まった大腿筋が浮き出るように見える。膝上まである赤いブーツが、その全体像を引き締めている。
「赤き灼熱の天使! ヴァネッサ・バンガードぉぉぉぉぉっ!!!」
静まった観客が、溜まりに溜まり切った熱量をアナウンス・コールと共に放出するとホールが揺れる。
しかし、突如すべての照明が落とされ、揺れていたホールは闇に包まれる。
スポットライトに照らされたのは、逆の入場口から登場したガンボルドだった。
圧倒的な存在感を誇る巨漢だ。厚い胸板はまるで岩のように硬く、腕は太く盛り上がった筋肉で覆われている。
彼の肌は浅黒く、汗が流れた時、それは彼の体に光の筋を引くようで、さらにその異質なボディを強調する。
ガンボルトの顔には、恐怖を煽るための独特なメイクが施されている。顔全体を覆う黒と赤のペイントは、まるで悪霊を思わせる不気味さを持っている。
「地獄という肥溜めより生まれたマジのビチグソ、極悪非道という言葉すら彼の前では生ぬるい! ガンボルド・マジグチィィィィッ!!!!」
試合開始のゴングが鳴ると、ガンボルドは早速、悪役らしく狡猾な一面を見せつける。
握手をもとめる淑女なヴァネッサにいきなり口に含んでいた毒霧を吹きかけたのだ。
ヴァネッサは「きゃあぁっ!」と声を上げ顔をそむける。怯んだところをスネを蹴られてマットに転がされた。
観客は絶叫するものの、手に汗を握り、これからの展開に期待を膨らませている。
ガンボルトは寝そべったヴァネッサの金髪を引っ張り、ロープに押し付けるという非道な技を繰り出した。
審判が慌てて制止するが、ガンボルトは「このクソボケが!」と叫びながら、ヴァネッサをロープに叩きつける。
ヴァネッサは冷静にこの「叫び」を聞きつつ、派手に技をくらう。
観客は一斉にブーイングを浴びせるが、ガンボルドはニヤニヤと悪魔のように笑うのみだ。
「アバズレがあぁ!」
ヴァネッサはガンボルトにロープに押し付けられた瞬間、自らも反発してロープを利用し、ガンボルトの身体を捕えるとマットに叩きつけた。
しかし、ガンボルトはすぐに起き上がり、ふたたびヴァネッサを捕まえてコーナーに追い込む。
「このアバズレがあぁっ!」
ガンボルトの叫び声が響き、腕をふりかぶって突進した。
ふらつきながらヴァネッサは巧妙に彼の攻撃をかわす。華麗に反転してガンボルトの鳩尾に肘を食らわせた。たまらずに嘔吐しそうになるのをこらえるガンボルドに、観客はこらえきれず大歓声を上げた。
ガンボルドは再び立ち上がり、今度はヴァネッサの足を取って転ばせようとした。しかし、ヴァネッサはガンボルトの腕を掴み、その勢いを利用して自分の方に引き寄せた。
「#‘*PPp+%&%a$$っ!!!!」
ガンボルドが激しく叫び、再び反則技を見せようとしたその瞬間、ヴァネッサはその合図に従い、彼の攻撃を受け流し顔面にパンチを入れる。
ヴァネッサの動きは鮮やかで、観客はその見事なタイミングに驚嘆の声を上げた。
試合はまさに二人の熱い格闘のエネルギーに満ち溢れ、ホールにいた500人の観客を飲み込んでいた。
ガンボルトは次々と卑怯な反則技を仕掛け、ヴァネッサを追い詰めるが、そのたびにヴァネッサは冷静に攻撃の合図を受け取り、観客には読めない計算された反撃を繰り返した。
突如、熱気に身を任せていた観客は凍り付くことになる。
ヴァネッサの油断が原因だった。ラリアートを食らい背中からマットに倒れたところで、左腕の肘を関節技で決められ押さえ込まれてしまったのだ。
「放して、放してください! あああああっ!」
「誰が放すかよっ! テメエは有罪だ! 地獄の裁判所に送ってやるぜぇ!」
ヴァネッサは堪えきれずギブアップを宣言をすべくマットを叩こうとした。彼女のセコンドもタオルを投入せんと振りかぶる。それでも、地獄の惨劇は起こってしまう。
ガキッ!
「きゃあああああああああっ!」
ヴァネッサの天を貫く悲鳴と、肘関節の折れる音がホールに響いた。
観衆は血の気が引いたように静まり返る。
「反則だ! 反則負けだっ、ガンボルド!」
レフェリーがガンボルドを指さし、ヴァネッサのセコンドとリング脇に待機していた警備員四名がリングにあがり彼女をガンボルドから救出する。
レフェリーがヴァネッサに肩を貸し立ち上がらせると、彼女の無事なほうの腕を取り高くかかげようとする。
「勝者、ヴァネッサ……」
しかし、ヴァネッサはその腕を振りほどくとレフェリーを制止し睨みつけた。
「腕は、折れてないわ。ええ、折れてないわよ。まだやるわ、私が裁きをくだすのよ! いい? 反則負けなんて許さないから! 私があの悪魔を仕留めるの!」
ヴァネッサはレフェリーの耳元で何かを告げると、折れているはずの腕を天高くかかげ拳をにぎりしめてみせた。
「ヴァネッサ! 天使の羽だ!」
スポンサー企業からのエナジードリンクがリングに投げ入れられると、これもまた折れているはずの腕でキャチしてゴクゴクと飲み干す。
「テメエ、バケモンか!?」
醜い顔をさらに醜悪にしたガンボルドに、涼しくも気高い顔でヴァネッサは軽くあしらう。
「あらあら、下品で醜い悪魔さん。エンジェルを捕まえてバケモノはないでしょ?」
ヴァネッサの切れ味鋭くも美しい視線と、ケダモノのようなガンボルドのドス黒い視線が交差する。
そこからのヴァネッサは、かの英雄ジャンヌダルクを思わせる強さを見せつけた。ヴァネッサと一体となった観客の熱気はもはやホールを内側から崩壊せしめんとするエネルギーと化していた。
気迫と共に放たれる攻撃はガンボルドをコーナーに追い詰め、最後の一撃を狙い、隙を見逃さず見事な締め技に持ち込んだ。
ガンボルトはその締め技の強烈さに意識を失う寸前まで耐え、観客の歓声が最高潮に達するタイミングでギブアップをした。
ヴァネッサは勝利の歓喜に包まれながら立ち上がる。
熱さではなく暖かいものが胸にあった。
彼女の目に一瞬だけ感謝の色が浮かんだが、それに観客が気づくことはない。
そして、誰にも分からぬように、《わざと外した左ひじの関節を元に戻した》。
ガンボルトはリング上で倒れたまま目を閉じている。
ヴァネッサが浴びる賞賛に、自身が受ける罵声に、プロレスラーとしての誇りを嚙みしめていた。
ヴァネッサが華やかなライトに照らされる。
観客に向かって手を振り、勝利のインタビューを受けている間、ガンボルトはリングの片隅でゆっくりと立ち上がり、セコンドの同伴をことわり、ひとり控室に向かって歩き出した。
二人が交わした合図と計画は、誰にも気づかれることなく、今回の戦いの舞台で完璧に演じられたのだ。
□
リングから10メートルほどガンボルドが歩を進めた時だった。
5~6歳くらいだろうか、ひとりの少年が柵を乗り越えると、ガンボルドに向かって走ってきて前に立ちふさがる。
「悪党め、反則ばかりしやがって、許さねえ!」
義憤に燃える少年は拳を握りしめ、いまにも挑みかかろうとしている。
ガンボルドは疲れ切った表情を引き締めなおすと、チラリとリング上のヴァネッサを見た。
リングの隅にあるトップロープから自分の距離を確認する。
(これは……ヴァネッサの跳躍力ならギリギリ届くんじゃねえか? )
彼女が試合後の今もまだ、彼の動きに気を配っているかどうかは分からない。しかし、ガンボルドはヴァネッサを信じていた。
彼女はきっと、この状況を見逃さないはずだと。
ガンボルドは胸板をゴリラのように両手で叩いた。過去最高の悪役らしい顔つきを作り上げてゆく。
(まったく、どんだけプロフェッショナルなんだよ俺は……)
ヒーローインタビューに湧きあがるホール、どれだけ声を張れるか?
「クソガキが、生意気にぃぃ」
ガンボルドは目の前の少年を見下すと睨みつける。
「ぶっころしてやる!」
ガンボルドは大声で叫んだ。
子供相手にもかかわらず、脚を広く取り踏ん張ると腕を振り上げた。
ゴトンゴトンッ!
会場のスピーカーからマイクが放り投げられる音が聞こえると、観衆が気づいた時にはヴァネッサはコーナーポストへ走っており、トップロープから跳躍していた。
その金髪は風に舞い、ファンには天使の羽根がその背中に見えていたという。
両脚で強烈なドロップキックがガンボルドの背中に打ち込まれた。
ガンボルドはキックを受けた瞬間、自らも地面を蹴り力の限り大きく吹き飛んだ。10メートルほど派手に飛ぶと、大きな声をあげて壁に激突した。その瞬間、彼のアバラが折れる音が鳴り、彼は顔をしかめ往生際悪く絶叫しつづけた。
ヴァネッサは少年のそばに駆け寄り、優しく声をかけている。
「大丈夫か? 怖くなかったか?」
少年は目を輝かせながらヴァネッサを見上げ、勇敢な彼女の姿に感動しているようだった。その様子を見た観客も感嘆の声を上げ、称賛が輪となり会場を大きく揺らす。
―― 赤き灼熱の天使 ヴァネッサ・バンガード
ヴァネッサ・コールはスコールとなり鳴りやまない。
(カッコいいぜヴァネッサ、最高のショーだったよ……アバラの治療費はお前持ちだぜ)
壁際で横たわるガンボルドの周囲にも人が集まり「大丈夫か?」と声をかけてくる。
「お、俺に近づくんじゃねえ、死にてえのか」
口汚く叫ぶガンボルドであるが、観客たちがどこからか持ってきた担架にのせられ会場を後にした。
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