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『夢を映す瞳』
あら、もうそんな時間でしたか。ふふっ、申し訳ございません。時計を見るという習慣がなかなか根付かないもので……すぐに、準備いたしますね。このお話を聞いていただくのは、この件で多大な心配をかけてしまった、幼き頃より苦楽を共にしてきた、誰よりも優しい侍女以外では、貴方様が初めてですよ。
あれは、今から丁度一年ほど遡った春のことです。柔らかな野花の香りが心和ませる庭を離れ、白波の泡立つ呼吸が耳を撫でる港へと、侍女とともに向かいました。きっかけは些細な幸福でした。あの娘が私の生活用品を買い出しに向かった際に、街角の福引にて仰々しい鐘の音を引き当てたのです。私は「年頃なのですから、意中の方でもお誘いなさい」と申し上げたのですが……兎にも角にも、侍女は私を籠の外へのエスコート役を申し出たのでした。
私達を乗せた船は、空を泳ぐ海鳥たちに負けじと雄大な汽笛を一息に歌い、その身を大海原へと投げ入れました。侍女が心根から楽しそうに、目の前に広がっている景色のあるがままを、声を大にして教えてくれていたのを覚えています。とても、優美な時を過ごしていました。
ぐらり。
不意に私の体が揺れました。咄嗟のことでしょう。私を強く抱き寄せる熱に、どうにか身を倒す事を避けられました。ですが、安堵のときは訪れません。
悲鳴。
閉ざされた世界に生きていた為に履き慣れないブーツがカラカラと笑う音も、不安や緊張に汗ばむ手で私を寄せる侍女の息遣いも、その全てを飲み込むほどに、強烈な。
「一体何が起きているのでしょうか?」そう問いかける私の声が、きっと震えていたのでしょう。侍女は私よりも少し大きな手で優しく髪を梳き、私に移動する旨を伝えました。彼女は幼い頃から判断力と行動力に優れ、私よりもずっと勇敢です。その手に引かれていれば、心は幾ばくかの安らぎを得られました。
ガチャリ、という硬質な音が響いた後、割れんばかりの悲鳴はいつしか怒号へと成り果てていました。それらは硬質な鉄板を蹴散らす様な音色と綯い交ぜとなって混沌と化し、彼女の声に澄ましていた鼓膜が揺さぶられ、酷い吐き気となって押し寄せました。
蹲りそうになりながらも、私は侍女の導きになんとか従い足を動かしました。「甲板へ急げ!」「救命ボートはまだ空いてるのか!?」「邪魔だ、どけ!」「私が先よ!助かりたいもの!!」耳を覆いたくなる様な冥府のカルニバルに踊らされつつも、たった一つの光を決して手放さないように。
ぐらり。
今一度、大きな揺れが私達を襲います。小さく鋭い悲鳴が、すぐに隣から上がりました。次いで、轟音。けたたましい破裂音と、膨大な質量を持つ何かと共に押し寄せる冷気。それは、私の手を引く侍女の、すぐ隣から。
こうしなければならないと、確信がありました。このままでは、あの娘も私も、無慈悲なうねりの中に沈みゆくことになる、と。ですから私は、ピタリと止まってしまった彼女の背中を、目一杯に前へと突き飛ばしていました。私の名前を叫ぶ声が、濁り始めた聴覚に辛うじて届いたので、とても、とても満ち足りた心持ちで、深淵の中へと意識を手放しました。
次に私が耳にしたのは、えぇと……そう、「いぇぐおぁ?」という声でした。聞き覚えのない、おそらくは私よりも幾らか若い男性のものでした。彼はしきりに「いぇぐおぁ、いぇぐおぁ?」と口にしていました。ふふっ、はい。仰るとおりです。私には覚えのない言葉で、只々どうして良いのかわからなくて、不安で、怖くなって、侍女の名前を幾度も叫びました。きっと、ポロポロと泣いてすら居たでしょう。
そんな様子を見てか、男性は声色をとても柔らかなものに変え、ゴツゴツとした指で不器用に私の髪を撫ぜながら、今一度「いぇぐおぁ」と囁きました。思い返せば、きっとあの言葉は「大丈夫」という程の意味だったのでしょうね。不思議と浮足立っていた心が凪ぎ、今自分が生きているという幸福を噛み締め、侍女の無事を願う事ができました。
それから暫くの間、私は男性が住む家で身を落ち着けることを許されたようでした。彼は母親と二人で暮らしており、私は彼らの話に必死に耳を傾けました。自分が置かれている状況を理解するためには、彼らと交流を行う必要があります。なんとかして、帰らなければなりませんでした。きっと、私のことを待っていてくださる人がいるから。
男性は、しきりに私へと話しかけてきました。幾分と大きな声で、ゆっくりとした口調で。例えるなら、そうですね。小等部の学童に初めて外来語を教える教員のようでした。「にぁぅご、べぐ! にぁぅご、べぐ!」と。最初の頃は、それを只々繰り返していました。「べぐ」という単語は、彼の母親が良く口にしていたのを聞いていました。そして、その単語を聞くと、男性が必ずなにかのリアクションを示していたことも。
「ベグ……?」と、恐る恐る口にしてみると、とても嬉しそうに声を弾ませながら「べぐ! にぁぅご、べぐ!」と。概ねの予想は付いておりましたが、コレにて確信へと代わりました。「ベグ」とは、彼自身の名前なのだろう、と。
「ベグ。にぁぅご、京香」
不意に、口が動きました。必死に何かを訴える彼の意志に、なにか報いたくなっていたのでしょうね。果たして、この文法が正しいのかどうか、そんな不安はすぐに消し飛びました。「きょぅか! りぇんべ、きょぅか!」と、その日一番にはしゃぎながら私の手を取って喜ぶ声に、私もつられて頬を緩めてしまいました。
その日から、ベグは家の外へと私を連れて歩くようになりました。「きょぅか! でぃしゅぐ、びた!」と言って、私の口元にあてがわれた温かい何かを頬張れば、サクリという心地よい歯ざわりの衣の中に、ふわりと芳醇な旨味とほんのり漂うハーブのような香りを纏った、上等な魚肉のような感覚が広がりました。「きょぅか、えいゔぁ、であ」と、小さく声を潜めながら歩調を速めたベグに付き従うときは、未知の冒険をしているようで心が踊りました。侍女と引き離され、一欠程も存じ得ない世界に取り込まれた私が孤独に喘ぐこと無く立ち続けられたのは、私の手をずっと引いてくれたベグのお陰です。彼のお陰で、私は未知への恐怖に押しつぶされること無く、彼に笑顔を見せ続けることができました。
私が居る場所がどういったところなのか、当時の私には知る術が有りませんでした。ですからコレは推測ですが、恐らくベグが暮らしていた場所は、小さな島だったのかと思います。彼に手を引かれながらいろいろなところを歩きましたが、どこへ向かったとしても、旅立ちの日に感じた潮の香りに満ちていましたので。
私がベグと友人になってから一週間程の時が過ぎました。島の人々は、私にとても親身になってくださいました。行く先々でベグが「えいゔぁ、きょぅか!」と嬉しそうに触れ回っていたためか、いろいろな声で私の名前を呼んでいただいていました。甘味のような物――ベグは「ゔぁにあ」と呼んでいました――をご馳走になることもあれば、くたびれてしまった衣服を新調していただいたこともありました。えぇ、はい。あの額に飾ってあるものがそうです。民族衣装、とでも言うのでしょうか? とても神秘的な装いだと感じられますね。
ベグは本当にいろいろな場所を案内してくれました。中でも、毎日のように私を連れて行った場所があります。恐らく、教会のような場所だったのでしょう。えぇと、何故、同じ場所だとわかったのか、ですか? 簡単なことです。ベグだけではなく、島の人達が、いつも決まって同じぐらいの時間にそこへ向かっていました。人が集まる頃合いに、ベグは私の手をそっと離して、何やら祈りの文言の様な言葉を皆で歌っていたのですから。そう、ですね……たしか、「ぇうろにか、こるゔぉ、いだりゅいけー、きょぅか、ろぇ、のるど」といった様相の祝詞だったと思います。
何か、気になることが? そう、ですか?
では、続けますね――
その日が訪れたのは、更に三日程の静かな日々を過ごした後でした。私の体内時計が正確であれば、恐らく、みんなが寝静まる夜深くだったと思います。私に与えられた部屋に置かれた、ほんのりと湿り気を感じる柔らかい素材の寝具に横たわり、深かった眠りが僅かに浅くなり始めた頃合いでした。コツコツという控えめなノック音に揺すり起こされた私は、彼の名前を呼びました。私の部屋に来客があるのは、彼以外に有りませんでしたので。
「きょぅか、けるふぉ、のるど」
彼はそう囁き、私の手を取りました。握られる手の力は普段に増して強く、ほんのりと汗ばんでいるのを感じました。こんな時間にどうしたのだろう? なぜ、教会へ向かおうと言うのだろう? 彼は一体、何を焦っているのだろう? そんな疑問が幾つか浮かび上がりましたが、しばし逡巡した後に私は立ち上がりました。この島においてはベグが一番の理解者で、親しい間柄です。彼がそうするべきだと言うのであれば、そうなのだろうと感じていました。
私達が彼の住む家をゆっくりとした足取りで抜け出すと、彼はいつになく慎重な足取りで歩き始めました。それは、どんなに耳を澄ましてみても、彼の靴が草を踏み分ける音色が一切しないほどに。きっと、ただならぬ事が起きているのではないだろうか? そんな不安が胸中に膨れては弾けて混ざって行くのを感じます。
「きょぅか、いぇぐおぁ」
私の心情などお見通しなのでしょうか。握られる手に熱が籠められ、耳元で囁かれるその音に、私に巣食い始めた恐怖心は柔らかく溶かされ、震え始めた歩みが確かなものになりました。
教会には、涼やかな潮風が私達の髪を撫ぜる音色だけが響いていました。他の島民たちの気配はなく、流れる夜風を遮るものは、ほとんど何も有りません。
「ベグ、こぁる、ぺに?」
私は、ベグに訪ねました。どうして、こんな時間に二人で教会を訪れたのか。なぜ、島のみんなから隠れるようにしていたのか。そして、彼が何を恐れているのか、を。
「きょぅか」
帰ってきた言葉は短く、代わりに私をその熱で包みました。
「らでぃに」
次いで、聞いたことのない単語が。ただ、不思議と気持ちが落ち着きました。このまま、ここに居てもいいのではないか、そう感じるほどに。しかし――
「東子、会いたいな」
私には、帰るべき場所がありました。きっと、心配と不安と後悔と罪悪感とで押しつぶされそうになりながら、私のことをずっと待ち続ける、大切な侍女が居ました。その気持ちが、口をついて溢れました。
「ぐのが、ぇうろにか、こるゔぉ、いだりゅいけー、きょぅか、ろぇ、べぐ」
そっと私を離したベグが、そう歌いました。幾度も、幾度も、幾度も。声は震え、調子は崩れ、音は纏まらず、嗚咽混じりに。
「きぇふ、きょぅか、らでぃに」
震える手で私を抱えあげ、私を教会の一角――恐らくは祭壇の様なものでしょうか――へと寝かせ、最後に、自身の全てを示すかのように声を張り上げました。
大地震。
教会を支えているであろう柱が泣き崩れ、ゆさゆさと踊る草木は優雅さを忘我し、島を取り巻く慈愛の海は反旗を翻しました。その凄まじさに、私はその身を起こすことすらままならず、叫ぶことしかできません。
「ベグ!!」
返事は、一言だけでした。
「きょぅか……うぇんぬ」
ベグは、私が握ろうとした手を離しました。その後のことはわかりません。私がこの島に流れ着くきっかけとなった深淵と同質の闇に飲み込まれ、すぐに意識を手放してしまいましたから。
次に私が目にしたのは、侍女の東子の……ふふっ、涙と鼻水でぐずぐずにして、普段の凛と澄ました姿とはかけ離れた、あまりにも不細工な顔でした。私が東子の姿を目で追っている事に気づいたあの娘の驚きようったら、本当に……ふふっ。あぁ、ごめんなさい、私としたことが。
どうやら私は、最初に乗り込んだ旅行船の航路に漂流していたところを救助されたそうです。私を包むようにして共に浮かんでいた木材のような物は、その後調査の末に「コレまでに観測されたことのない未知の素材だ」という結果が出たことで、一時話題となったことも有りましたね。
さて、本日貴方様にこのお話をいたしましたのは他でもございません。コレまで数多くの真実を目の当たりにしてきた貴方様であれば、もしかすると私が探し求めるその島について、何かご存知なのではないか……そんな淡い期待を抱いておりました。ですが――えぇ、存じております。貴方様の顔色をお伺いすれば、全て。私はきっと、己自身の力で探し求めるべきなのでしょう。全ては私の自己満足に過ぎません。ただ、一度だけでも。私を助けてくれた心優しい男性を、遠目ででも一度拝見したい。それだけのために、こうして海洋事業へと手を伸ばしているのですから。
ふふっ、懐かしいお話ができて、とても楽しいひと時でした。本日は、この様な時間をいただきましてありがとうございます。次回号も、楽しみにしていますね?
母なる大神、エウロニカよ、ノルドのさらなる安寧と栄華を賜るべく、神聖なる禊として、きょぅかを捧げる――――か。真実とは、実に不条理で、理不尽だ。しかし、残酷な真実に飲まれるべくして流れ着いた女性の魂を救い上げたのもまた、青年に芽生えた真実の感情に他ならない。
私は、彼女に真実を伝えることを躊躇った。私の口から全てを伝えるのは、野暮というものだと感じたからだ。彼女がこの先ずっと真実を追い求め続けるのならば、いずれその目に映すことができるかも知れない。
終焉に住まう一族の瞳を勇敢な青年に譲り受けた、彼女なら――
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