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漂流者
ぷかり、ぷかぷか。ゆらり、ゆらゆら。どこまでも蒼く、白い濃霧に包まれた世界の中。ざあざあと波立つ白泡に紛れるように、私は一人漂っていた。 ここは一体どこなのだろう?
自分は一体なんなのだろう?
そんな疑問が浮かび上がるたびに、背中を預けた潮の底から、こぽり、こぽり、と小さな気泡が浮かんでは弾けて消えることをただ繰り返していた。体を包み込む水はとても温かくて、頬に触れる風はとても柔らかい。ほんの少しだけ力を入れて、体をざばりと沈めてみれば、いつまでもそうしていたいと思ってしまうほど、優しい波が包みこんでくれるようだった。
私は、ふと思い出したように水面へと浮かび上がり、そうしてすうっと息を吸い、ばしゃりばしゃりと水を掻き始めた。思い出したように、というのは単なる比喩だった。何も、思い出せていないから。ただ、なんとなく、優しい世界に溺れているだけではいけないような気がして。
ただただ、がむしゃらに手足を動かす時間が続いていた。私の瞳に映るのは、どこまでも蒼くてほの暗い水面と、ずぶ濡れになった長髪がべちゃりべちゃりとへばりついては視界を遮る黒色と、この不思議な世界の境界線を作り出すかのような真っ白い霧だけだ。あんなに優しかった潮水は、私の体を引き止めるかのようにベッタリと絡みつき、浜風は私の行方を遮るように向かいから吹き付けては、べちべちと白波を泡立て始めている。
けれども泳ぎを止めなかった私はやがて、私は完全なる白の世界に迷い込んだ。前も、後ろも、上も、下も。どこを向いても私の世界は白かった。もしかしたら、私の世界なんて始めから無かったのだろうか? なんてことすら頭をよぎる位には、私は虚無を泳ぎ続けていた。小さくはない抵抗を受け続けた手足はぴりぴりと痺れを訴え始めていたし、荒波に時折阻まれた呼吸はぜえぜえと悲鳴を上げ始めていた。それでも、私は泳ぎ続けていた。少しずつ、意識が遠のいていくのをまざまざと感じながら。理由なんて知らない。私にだってわからないんだから。
気がつけば、私は小さな島に居た。まぶたを持ち上げた私が見たのは、青々と澄み渡った空の下で、さらさらと白い光を跳ね返す温かい砂浜と、私を心配そうに覗き込む、知らないはずの女の子だった。
「大丈夫?」
私より少しだけ短い黒髪がだらりと垂らされて、私の頬にさらりと触れていた。絵筆の穂先みたいな優しい柔らかさのそれにくすぐったさを覚えながら、思ったよりも重くない体を持ち上げてニコリと笑ってみせた。
「うん、大丈夫。ありがとう」
立ち上がって並んで見れば、彼女は私より少し小柄で幼い気がした。あんまりちょうどいい所にあったから、思わず右手で彼女の頭を撫でていた。
「あっ、ごめんなさい。ちょっと馴れ馴れしいかな」
はっと気づいて、手をどける。
「……あっ、ううん、大丈夫だよ!」
それから少し遅れるようにして、そんな返事が返ってくる。その表情はとても複雑そうで、何を考えているのかはわからなかった。
「えぇっと、人違いだったらごめんなんだけど……湊(みなと)ちゃん?」
なんとなく、彼女の表情に耐えられなかった私は、会話の糸口になるかもしれないと思って気になることを聞いてみた。
「……っ! うんっ! 湊だよ!」
彼女はぴょんっと小さく跳ねて、私にむぎゅっと飛びついた。急なことでびっくりしたけれど、どうにか押し倒されるようなことはなく、しっかりとその体を支えてあげることができてホッとする。
「そかそか、合っててよかった。ねぇ、湊ちゃん。聞きたいことがあるんだけど――」
「ごめんね、何も、言えないの」
そのまま、なんとか会話を続けようとしたけれど、湊ちゃんは私の言葉を遮るようにそう言った。「どうして?」って聞こうとして、言葉がつっかえる。彼女の表情が、また揺れていたから。さっきよりもずっと、辛そうで、苦しそうで、今にも泣き出しそうだから。
「あー……えっと…………変なこと聞いてごめんね!」
今度はわざとらしく、がしがしと湊ちゃんの頭を撫でて見せる。「おー、よしよし」なんて、ワンちゃんを撫で回すみたいにおどけながら。
「……くすっ」
「あっ、笑ったなー! よーし、もっと笑えー!」
しまいには、体中をくすぐるみたいにしてじゃれついて見せれば、とってもこそばゆそうにしながらころころと大きく笑ってくれるのを見て、どうしてか心の底から安堵するのを感じていた。
「本当に、もう行っちゃうの?」
またもや泣きそうな顔で、湊ちゃんが私にそう尋ねてきたのは、5回ほど太陽が登っては沈むのを繰り返したあとだった。湊ちゃんは、私が何かを質問することを怖がっているようだったから、ただただ意味のない会話だけを何度も繰り返していた。彼女の表情がころりころりと変わるのがとても面白くて、たくさん、たくさんお喋りをした。
「正直言えば、湊ちゃんとずっと一緒にここにいることも考えたんだけどね。でも、私は多分、思い出さなきゃいけないから」
未だに、私は自分自身の名前ですら思い出すことができていない。自分が何者で、何があってここへ来たのかなんてもってのほかだ。だけど、一つだけはっきりと思い出したこと、それはきっと、とっても大事なことだと思った。
「夢で、見るんだ。この島で目を覚ましたときからずっと。湊ちゃんと私が、楽しそうに街を歩いていたり、一緒にご飯を食べてたり、テニスとかしてたり、そんな光景。全部忘れた私が一番最初に思い出したのが、湊ちゃんの名前なんだ。自分のこと、名前ですら思い出せないのにね。きっと、それだけ大切なんだよ」
だから、思い出したいんだって、そう伝える。
「きっと、この海の何処かを探せば、もっともっと記憶が眠ってると思うんだ」
水平線がはっきりと見えるほどに、世界を包んでいた白いモヤが晴れ渡っていた。これはきっと、湊ちゃんのことを思い出したおかげだと思った。
「ちゃんと、全部思い出して返ってくるから」
そっと、両手を差し出した。頬をニッと持ち上げ、眦をふにゃっと緩ませて。きっと、そうすれば彼女が飛び込んでくると思ったから。
「うん……わかった」
でも、彼女はそっと一歩下がってみせて、私とおんなじようにして笑った。ふわりと弧を描いた眦は、ほんの少しだけ滲んでいたけれど。彼女がどんな気持ちでそうしたのかはわからない。とても泣き虫で、甘え上手で、夜の暗闇が怖くて抱きついてくるような子のはずなのに。
この島には、小さなイカダが流れ着いていた。木材はちょっとくすんで、ささくれだってて、それを縛るロープは少しだけもつれて、苔がついていたけれど、どうにかありあわせの材料で補強を済ませることはできそうだった。無事に修繕を終えた私は、湊ちゃんの協力を得て、イカダを水面へと浮かべることに成功した。ちょっぴり頼りないツギハギだらけの帆を張って、流れ着いたバケツに石ころを詰め込んだだけの簡単な錨を引き上げて、青い青い世界へと踏み出した。
「それじゃあ、またね! 湊ちゃん!」
ぶんぶんと大きく手を振って、少しずつ小さくなっていく湊ちゃんへと声を送り続ける。湊ちゃんは、遠慮がちに小さく手を振りながら見送ってくれていた。
「行ってらっしゃい、―――――。」
ざあざあと響く波風に飲み込まれたせいか、湊ちゃんの言葉は最後まで聞きとることができなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。わたしは、たくさんの島を巡っていた。無限とも思えてしまうくらい広々とした青一色の地図に、点々と色づけたように浮かぶ島には、そこに住む人が暮らしていることが少なくなかった。すこし古びた農村のおじいちゃん、親しみやすい街のパン屋さん、ちょっと背伸びしたくなるブティックの店員、おっかなそうな顔つきだけど物腰の柔らかい学校の先生――――本当に、たくさんの人達に出会った。
彼らの姿を一目見ると、ふわりふわりと波打つみたいに、頭の奥から小さな思い出が押し寄せてきた。湊ちゃんのときみたいに、楽しいことばっかりじゃなかったけれど、どれも大切なものだと感じることができた。
私は、もっともっとたくさんのことを思い出したいと願うようになっていった。でも、私が喜々としてみんなにそう伝えると、彼らは口を揃えてこう言うんだ。「全部忘れて、湊ちゃんの所に帰ったほうがいい」ってさ。「ちゃんと全部思い出したら帰るから!」って、言われるたびに言い返してたけど、自分がしたいと思うことを否定されるのは、ちょっぴり気分が悪かった。
そんなときだったからだろうか。湊ちゃんと分かれてずいぶんと遠くまで離れた島で出会った、お医者さんの制服を着たお兄さんが、私がしたいことを肯定してくれたのが嬉しかった。「拾い物だけど、いいものがあるよ」といって、彼は潜水服を私にくれた。たしかに、これだけ広い海だったら、目に見える島以外にも探すだけの価値がありそうだと思った。
「頑張ってね」
そう言って見送ってくれたお兄さんの瞳は、私を見守る保護者さんみたいで、どうにも気恥ずかしいと思った。「行ってきます!」とちょっと上ずった声で言いながら海に飛び込むとき、お医者さんがじっと私の様子を見ながら、ほんの少しだけ辛そうな顔をして、手にしたノートのようなものに何か書き込んでいるのが見えた気がした。
先日私が漂っていた水の底は、どこまでも蒼くて暗かった。陽の光が届く世界でふよふよと浮いていた頃には感じられなかった、べっとりとした肌寒さや、ぺたぺたと撫で回すみたいなねばっとした気持ち悪さが漂っていた気がした。ぞわっていう不気味さで一瞬だけ体が固まっちゃった。もしかすると、この先に眠っているものには、触れないほうがいいのかもって思うくらいには、じくじくとした嫌な雰囲気みたいなものを感じてる。
でも、それとおんなじくらいには、この先に眠っているものを思い出さなきゃいけないような、使命感に似た気持ちもあった。「たすけて」という声が、水底に向けて進んでいく私の耳を透き通っていった気がした。誰の声だっただろう。聞いたことがある気がするんだけど、思い出せない。
どこまでも、どこまでも深々と続いていく海溝にも、やがて終わりは見えてきた。太陽光が全くと言っていいくらい届かないほど深くて、私の両手くらいまでしか見渡すことができない程度に暗かった。
たどり着いた海底に広がっていたのは、オンボロに古びた廃ビルみたいだった。ひび割れたり欠け落ちたりしたコンクリートが散らばって、ほんのり錆びた鉄筋がむき出しになっているような建物で、とてもじゃないけど人が住んだり使っている場所とは思えなかった。
ズキリ。
頭の横側が、ひどく痛んだ。
今まで私が見てきた島とは似ても似つかない、人のぬくもりを感じられられないこの建物のことを、私は間違いなく知っていた。受付があったはずのエントランスに打ち捨てられた観葉植物の枯葉色も、ほとんどが剥がれて地面に散乱しているけれど、辛うじて部分的に残っていた手すりのペンキ色も、階段を登った先に放置された年季のある革張りソファから内蔵みたいに飛び出したクッション材の綿色も、私は全部知っていた。
どうして自分はこの廃ビルの存在を知っているのか。
どうして自分はここで何が起きたか忘れているのか。
その答えは、今私が握っているドアノブをひねった先にある。そう確信していた。けれど、私の腕は、なかなか言うことを聞いてはくれなかった。理由は簡単。怖いんだ。この先にある記憶を呼び起こしてしまったら、私はどうなってしまうんだろうか。この世界はどうなってしまうんだろうか。私は、私で居られるんだろうか。そんな恐怖心が、私という小さな器にあっという間に広がって、ぎいぎいと音を立てているのが聞こえてるんだ。
しばらく目を閉じて、ゆっくり息を整えた。背負ったボンベに込められた酸素を大きく吸い込んで、自分が思い出してきた大切な人の笑顔を瞼の裏に浮かべた。全部思い出して、向き合うんだ。そう思ったら、ようやく震えが収まっていくのを感じられた。意を決して腕を捻った。ギィっと錆びた音がして、扉はゆっくりと開け放たれていく。そうして――――
「湊ッ‼️」
ありったけの力で扉を押し開いた私は、胃の底からせり上がるモノを抑え込むために息を呑みこんだ。むせ返るような獣臭さに交じるアンモニアと鉄さびが鼻を刺した。げらげらと不快に笑いながら紡がれた「性癖歪みすぎだろ」「使えなくなっただろ」という言葉が鼓膜を突き破り脳症を濯いだ。赤黒い雫に浸るように倒れて、青い顔でこちらを向いたままピクリとも動かないのは、紛れもなく彼女だった。
ピシリピシリと、音を立てて全てが壊れる音色が聞こえてきた。「お、新しいの来たじゃん」なんていう言葉が右から左へと抜けていった。あぐらをかいていたベージュ色の何かがぐにゃりぐにゃりと歪みながら、こっちにねばねばと波打ちながら近づいてくる。世界が、溶けていく。
「――――アハハッ」
右手に握りしめていた家の包丁を大きく振り上げた、その時だ。ガラスが砕けて枠だけになった窓から、潮の香りが漂ったのは。ざばり、というけたたましい音が鳴り響きながら、鉄砲水のように海水が流れ込んできた。おかしいな、ここは内陸部の町外れで、海はとにかく川や池もないのに。
どこからともなく湧き出した、蒼い蒼い猛烈な質量の塊の渦は、この爛れきった世界を洗い流すかのようにすべてを飲み込んでいく。
「もう、どうでもいっか――」
瞬く間に波に飲まれた私は、押し寄せた波の引き潮によって廃ビルから引きずり出されていた。そうしてそのまま、視界いっぱいを埋め尽くすみたいな広大な津波へと埋もれていく。私を包みこんだその水は、とても柔らかくて温かい、優しいお母さんが準備してくれたベッドみたいに優しかった。いつまでも、こうして溺れていたいと思えるような幸せにまどろむように、私の意識は蒼く塗りつぶされていった。
ぷかり、ぷかぷか。ゆらり、ゆらゆら。どこまでも蒼く、白い濃霧に包まれた世界の中。ざあざあと波立つ白泡に紛れるように、うずくまっている彼女を、私はそっと抱き寄せた。何も見たくないよね、と。そっとまぶたを閉じさせて。何も聞きたくないよね、と。そっとその両耳を覆って。
こうするのは、もう何回目だろう。大切なものを守れなかった後悔と、黒い感情に塗りつぶされて犯してしまった罪に押しつぶされて、壊れそうな心を守るために、こうして一人で漂って。そんな貴女を、私はただ、仮初の静寂に満たしてあげることしかできなくて。
こんなことはやめてほしい。でも、彼女はきっとまた、いつか目を覚ましては全ての記憶を思い出そうとしてしまう。だって、とっても優しくて、すっごく責任感の強い人だから。どれだけ引き止めたって、どれだけ訴えたって、きっとまた、繰り返す。
過去に縛られてほしくない、なんて。偉そうなことは言えやしない。だって、私もおんなじだから。大事な人の心を助けてあげられなくて、犯罪者担ってしまうのを止めてあげられなくて、その後悔で、産まれた私には。
「ゆっくり、休んでね」
彼女の耳を覆ったまま、ささやく。聞こえてなくても良いの。
「眠っている間は、私が面倒を見るから」
もうそろそろ、行かなくちゃ。彼女がいつもそうしてくれたみたいに、手でそっと頭を撫でる。私は、この時間が世界で一番好きだったから。しばらくそうしていたけれど、出発の時間が来たみたいだ。もう聞き慣れてしまった声がする。”私”を呼んでいる声が。最後に、撫でていた手で長い髪をそっとかきあげ、額に短く口づけを落とし、挨拶を交わして手を離した。彼女の体は、静かな白波にゆったりと誘われて、穏やかな眠りの中に飲み込まれていった。
「おかえりなさい、お姉ちゃん。それと――――」
――――行ってきます。
診察カルテ:水原(みずはら) 美舟(みふね)
病名:解離性同一性障害
5年前に発生した『水原 湊』殺害及びその加害者と思われる男子大学生サークルメンバー4人の殺害による精神的ショックにより発症したと思われる。患者は自身を『湊』と名乗っていることから、妹の死を受け入れられず、自身の中で模倣した結果と推測される。
時折、『美舟』として過去の事件について思い出そうとしている兆候が見られるが、定期的に発狂。鎮静剤を投与し安静にした後には『湊』へと人格が戻っている。
『湊』には殺人事件における刑事責任はない。このままの状態が続けば彼女を犯人として起訴することは難しいだろう。私の使命は、彼女に正しい人格を根付かせ、自身の罪と向き合わせることだ。
しかし、苦しみ、えづき、涙し、ときに院内の物を用いて自身を傷つけようとする姿を見て、これ以上を彼女に何かを強いることは、果たして人間として正しいことなのかと思わずには居られない。(この文章は塗り潰されている)
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