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気を抜いたら倒れてしまいそうだと思うくらい、関係が解除されたと同時に一気に血の気が引いた。
心臓が冷えて、嫌な汗が吹き出す。
寒いわけでもないのに震えが止まらなくて、意味もなく喉が引き攣った。
このまま悪化したら死んでしまうんじゃないだろうかと、一瞬本気でそう思った。
しかしそのくらい怖いと感じた症状も、時間が経つにつれて少しずつ治まっていく。
数分じっとしていただけで、特別な処置をしたわけでもない。
しかし一度症状が落ち着いてしまえばそれで終わりで、再び症状が出ることはなかった。
見た目は特に変化がないけれど、感覚で分かる。
たった今、私の中から番という特別な繋がりが消えた。
「……は」
小さく息を吐き、引き攣って苦しくなった呼吸を落ち着ける。
強制的に地獄に落とされたような酷い気分にされ、普通なら絶望して泣き喚いたりする場面なのだろう。
番に捨てられたと理解した瞬間、自分の存在全てを否定されたような感覚が確かに脳を流れた。
本気で存在意義を否定された感覚はあったけれど、それでも。
東条に「もう触らない」と言われた時の方が、絶対に痛くて苦しかったと由莉は思う。
「……凪、くん」
「うん、なに?」
「……ありがとう。ずっと、巻き込んでごめんね」
この感覚を嬉しいと思うのも、番という関係を解除されてお礼を言うのも、数少ないオメガの中できっと私くらいだ。
捨てられて心臓が潰されたようなこの感覚をまた味わいたいとは決して思わないけれど、それでも今は苦しいとか辛いとか以上に、安心した気持ちの方が大きい。
「そういう顔、僕と番った時にして欲しかった」
「……うん、ごめんね」
番った日はぼろぼろ泣いて、今日ここに来てからもずっと険しい顔をしていたと思う。
今の自分がどういう表情なのかは分からないけれど、番を解除した瞬間にそんな事を言わせてしまうのだから、凪くんには本当に嫌なことしかしていない。
「凪くん、あの……」
「心臓の辺り、なんか減った感じがする。慰めてくれる気持ちが少しでもあるならまだ付き合ってよ」
縋るようにそんなことを言う凪に手を伸ばされ、口から出そうとしていた謝罪の言葉を由莉はぐっと留める。
番った時と同じ、細胞が作り変わったような感覚と、胸のどこかが少し欠けたような感覚だけが残った。
凪の言う「減った感じ」という感覚は、由莉にだってちゃんと分かる。
だけどここで同調して傷を舐め合ったら、それこそ凪くんがしてくれた行動に意味がなくなってしまう。
「……私じゃ埋められない、から」
床に散らばった服に袖を通してから立ち上がり、無言で凪に向かって頭を下げた。
仮にも番であった人のもとを、このまま何も言わずに立ち去るのは冷たい行動だろうか。
だけど今ここで私がどんな事を言っても、凪くんが嬉しくなることなんて絶対にないのだ。
ありがとうもごめんなさいも聞きたくないと、そう思っている事くらいは表情を見れば伝わる。
いい思い出になんかならない、しない方がいい。
そんな気遣いできる余裕がないくらい、早く隆一さんに会いたいって気持ちが頭の中を占めている。
そのまま凪の家から出て向かう所なんて、一つしか思い浮かばなかった。
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