違う匂い

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 項に歯を立てられても感じるのは痛みと恐怖だけで、いくら噛んでも番の上書きなんて出来るわけがない。  ずっとして欲しかった行為のはずなのに今はもうただ苦しいだけで、番以外のアルファに触られている恐怖で、由莉の表情がどんどん歪んでいった。  苦しい。怖い。痛い。嫌だ。  思うだけでは抑えきれず、東条を拒む言葉ばかりが口から漏れる。それでも東条が由莉を離してくれることはなく、項から口が離れて直ぐに、今度は首から胸にかけて東条の唇が這った。  乱暴に由莉の服を乱しながら、凪がつけた鬱血痕の上から東条に肌を吸われる。  こんなの本当に、何の意味もない行動だ。拒もうと必死に東条の胸を押し返すが、由莉のその行動も意味のない抵抗に終わる。  逃げようとしてズルズル座り込んでしまった床が冷たい。背中に触れる壁も硬くて、そこに押し付けられているだけで体が痛み、どんどん恐怖が募っていく。 「くるし……っ、ごめ、なさい……! 離して、やだ……」 「そんな反応しか出来ないのに、どういうつもりで俺のところ来たの? 無事に返すわけないんだから、嫌なら最初から逃げてればいいだろ」 「……こんな、すると思わなかっ、や、いたい……もっ……やだ、話したくて、それだけ……」 「話したいって別れ話? そんなのに俺が大人しく応じると思ったの?」 「ちが、……っ!」  別れ話も何も、ちゃんと付き合っているならこんな風にはなっていない。  東条が望んでいるわけでもないのに、婚約という歪な関係だけが二人の間にあった。その関係を手放す決意ができたから、その為に何をすればいいのか知りたかっただけなのだ。  どういうやり方なら迷惑をかけないで済むのか聞いて、今まで嫌々ヒートに付き合わせていた事を謝りたかった。  一方的に婚約破棄を突きつけた非常識な奴だと、周りから責められるのは私だけでいい。  謝って、お礼を言って、私の事は気にしないでちゃんと好きな人と結婚してくださいって、そう伝えて終わりにするはずだったのに。  どうしてこんな、何の意味もない事をされているのか本気で分からない。   「違うって何? こんな状態で別れ話以外にする話ある?」 「ちゃんと話して、伝えなきゃって思って……。東条さんには好きな人と、し……幸せになってほしいから」 「マジでさぁ、どういうつもりで言ってるわけ? こんな形で裏切っておいて何? 好きな子に裏切られてどう幸せになれって?」 「は……」  東条の口から飛び出した言葉に由莉の動きが止まる。  今、何かすごく、大事なことを言われた気がする。 「なに、言って……」 「そっちこそ何が言いたいの? 今俺が話したい事なんて一つしかないけど」 「……な、なんですか?」 「番った相手、誰? 何したら君は戻ってくるの」  再び項に舌が這って、恐怖で身体が戦慄く。  遠慮なく歯が立てられ、噛みつかれるとただ痛みだけが体全体に広がった。  こわい。番じゃない人に触られるの、本当に怖い。  相手は東条さんなのに、今までと全然違う恐怖が脳を揺らす。 「し、らな……やだ、触るのいや……っ」 「この程度今まで嫌がったことないだろ。今日少し離れてただけで何がそんなに変わるの?」 「やだ、ほんとにダメ……やだ……」 「今更拒むな。本気で壊してやりたくなる」 「……っ」  心だけなら、今まで何度も壊れそうになった。  それでも表面上は優しく大事に扱ってもらっていたから、本気で傷付いてボロボロになりきることも出来なくて、東条さんの優しさと情に縋ってズルズルと関係を続けてしまった。  壊したいって思う気持ちがあるなら、最初から壊すつもりで接してくれて良かったのに。  あとから捨てられる可能性があっても、好きになってもらえなくても、番にしてもらえたらそれだけで嬉しかった。  色んな事を気遣ってくれるのに本当に欲しいものはくれなくて、中途半端な優しさが申し訳なくて、虚しくて痛くて、それなのに……。  どうして私よりも、東条さんの方が苦しそうな顔をしているんだろうか。
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