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一つ山を越える。越えても、また次の山が来る。また越える。
ようやく、ヒト休みが出来るか。安心しかけるところで、
「三つ目のお山が、すぐそこですよ。ここから見えます、あの背高のっぽのイチョウの木のおかげで見えにくくなっていますが、ほんとにすぐそこ。さあ、登りましょう」とそんな囁きが聞こえた。
三つ目のお山を越えれば、もう山というものはないのでしょうか。楽になれるのでしょうか、と問えば、お山さんは次々とやって来る。楽だろうが楽でなかろうが、目の前にとやって来れば、越えるしかない。それが人生というものでしょう、と囁きは、確かな声となって耳元に渦を巻かせた。
それが、それこそが人生というものでしょう。あっさり言われてしまえば、身もフタもないという気もして、サヤ子はゲンナリした。そうしながらも、一つ明確な目的なり目標なりがあれば、越えやすくも登りやすくもあるかなと思い付いた。
だが、そんなもの、今の自分にあるだろうか。
どうしたもんかねえ、と溜息を付く母親を見て、長女のミノリが、わたしだったら、ヤマビコさんの声が聞きたいな、と横から言った。
「ヤ、ヤマビコさん?」
「そうだよ。ヤッホーって呼んだら、ヤッホーって返してくれるヤマビコさん」
ふーんとサヤ子が頷くと、次女のミヤコが、
「そんなものはウソっぱちだよ」と透かさずチャチャを入れた。
「だってさー、ヤッホーって呼びかけるのはそもそも自分の声じゃん。ということは、呼びかけて帰って来る声だって、結局は自分の声ってことになるじゃない」
もっともな言種のような気がするが、言い方にはトゲがある。
おねえさんにそんな口の利き方をするのはどうかしらね、とたしなめられると、プイとミヤコは横を向いた。
「ママは、いつだって、おねえちゃんの味方なのね」
「そんなことないわよ」
言い合いをしたって始まらない。言い合いをしているヒマがあるのなら、他にもすることがあるのだとミヤコは果敢に言い放って、自分はこれから、ヤマビコさんに逢いに行く、と本当にもう家を出て行った。
「ま、待ちなさいよ」
ミノリも、あとを追う。
気が付けば、子供二人はもういない。
母親のサヤ子は、一人、家に取り残されてしまった。
「うまく行ったね」
「うん。うまく行った。よかった、よかった」
コンビニで買ったポテトチップスを分け合いながら、ミノリとミヤコは頷いた。
こうでもしなければ、ヤマビコさんに逢いに行けないと急ぎ足にもなるのだった。
わたしたちは、ママの目の前で喧嘩をする。言い合う振りをして、その隙を狙って、家を出る。打合せ通りだ。
ヤマビコさんに逢いに行こうと言い出したのは、ミヤコの方だった。
「こっちから逢いに行かないと、おねえちゃんはヤマビコさんの恋人になれないよ」
「そ、そんな。恋人だなんて。このわたしが?」
「ほら、そういうとこが、おねえちゃんのイケテナイとこ。もっとさぁ、アクティブになんなきゃね」
アクティブねえ。自分はそんなキャラじゃないよと言い返す前、おねちゃんにはシアワセになってもらいたいの、とミヤコは健気な顔をする。
山のかなたのヤマビコさんと恋をして、おねえちゃんは結婚する。おねえちゃんとヤマビコさんはとってもとっても仲良しの夫婦で、子供も10人くらいはすぐ生まれちゃう。このわたしは、その子供たちの叔母さんとして、彼らをかわいがる。生まれた子供たちは、まあ、にんげんとヤマビコさんとの間に出来たユニークな血筋を持っている。その子供たちを成長させて、世の中の普通の人と結婚させる。ワクワクするわ――ミヤコはそんな夢を持っているのだが、ミノリにも母親のサヤ子にも告げたことはない。
おーい。お山に到着した姉妹はさっそく、呼びかけを始めた。
ヤッホーではなく、シンプルに、おーい。芸が無いというか、ありきたりなものでは、ヤマビコさんは振り向きもしてくれないと思ったのだった。
だが、おーいだろうが、ヤッホーだろうが、結果は同じことだった。ヤマビコさんの声はかえって来ない。
今日は日がワルイのかな。古風なことを言って、その日は諦めることにした。
手回しの良いミヤコは山小屋を借りていて、そこは食料品&飲み物付きで、1週間は滞在が可能だった。
1週間もあれば、ヤマビコさんとおねえちゃんはイイご関係になれるよとミヤコは期待していた。
だが、1日が過ぎても5日が過ぎても、好結果は得られなかった。
おーい、ヤッホーに加えて、ハッピー、ヤッピー、ホッピーといろんな呼びかけをしても、同じこと。
一声を放てば、何の抵抗もなく山の向こうまで届きそうな晴天が続いているのに、このありさまなのだった。
もともと、ヤマビコさんなんていないのかしらね。アキラメ顔になって行くミノリを、ミヤコは勝負はこれからよと励ます。
しかし、7日が過ぎる頃には、とうとう、食べ物も飲み物も残り少なくなった。
「やっぱり、いったんオウチに帰るしかないのかなぁ」
「そのようね」
いったいぜんたい、あんたたちは何をやってるの! と1日おき、サヤ子からも、スマホ越しのお目玉を食らっていた。
家族3人でやっている喫茶店は、バイト馴れしたミヤコの仲良しさん達に助っ人をお願いしていて、その点で不自由はないはずだったが、やはりサヤ子は機嫌が良くない様子だ。
「ママのゴキゲンを、これ以上損なわせないためにも、お家に帰るのがよさそうね」
「そのようね」
顔を見合わす姉妹なのであったが、その時、不意にも小屋の扉をノックする音が聞こえた。
「あッ」
「あ!」
二人は同時に顔を見合わせ、思わずガッツポーズをしそうになった。
これは初めての訪問客ではないか。もしかしたら、ヤマビコさん御本人のお訪ねか、あるいは使者か。遂にツイに、その時がやってきたのか!
二人一緒にドアを開けると、そこには、しかし、杖を付いたおじいさんが佇んでいた。
「どなたです?」
些か気落ちしながら二人揃って訊ねると、自分は山小屋の管理人だが、このところ、夜の夜中でも、この小屋には明かりが灯っているとの通報があった。だから、気になって来てみたと少し怖い顔をして言った。
「明かりって……そりゃあ、夜になれば」
部屋借りの手続きをしたミヤコが言葉を挟むのだが、おじいさんの顔はますます強張っていく。
「私は、誰にもこの部屋を貸した覚えはないんだ」
「そ、そんな。ちゃんとスマホ経由でお借りしたのですよ。小屋の鍵だって、郵便で送られてきたわけですし」
何一つの言葉さえ聞こえなかったみたいな顔をして、おじいさんは、帰りなさいとヒト言、言った。
何だか怖いわ。そうよね。納得できなかったが、姉妹はすごすごと仰せに従った。
帰り道、突然出現した大きな穴ぼこに、二人は、コロコロとおにぎりみたいに転がり落ちて行き、あれあれ、するとそこには夢のような別世界がひらけていて、あらあら、プリンセスさま、プリンセスさまと拍手喝さいをされるまま、ミノリとミヤコは、崇め奉られるばかり……なんて、そんなおとぎ話の主人公めいた逆転劇など起こりはしないで、二人は平々凡々と呆気なく家に戻った。
お帰りなさいとも言わず、姉妹を迎えたサヤ子は、ミヤコの仲良しさん達に給金を渡し、さあ、あんたたちしっかり働くのよ、と娘二人をコキ使う。ハイハイとミノリとミヤコは、やはり言うことをきくしかなかった。
ところが、五日ばかりが経って、山小屋の管理人の使者であると名乗る人物が訪ねてきた。準備中の喫茶店で、ミノリとミヤコは掃除をしたり、軽食用の下準備をしたりと忙しくしていた。
管理人とやらのおじいさんの応対を、いやでも思い出す姉妹は、思わず身構えたが、目の前の使者と名乗る人物は、若くて、見栄えもわるくなく、何より物腰がやわらか。
「何の御用です?」と口を揃えて訊くのにも、抵抗が無かった。
「はい」と若者は歯切れよく返事をし、
「実は、ヤマビコさんからのお申しつけで」とあっさりあっけらかんとも言ってのける。笑顔満面、キレイな歯並びが口から零れるのを見るともなく、
「ヤ、ヤマビコさん!」――姉妹は声を揃えて、飛び上がりたくなった。
隣りで、何のお話しなのよと怪訝な顔しかしていないサヤ子の様子など気にも留めない風情で、「実は……」と使者は話し始めた。
我らがヤマビコさんは、シャイなところがある。それでもって、この自分が代わりの使者となって参りました次第。ヤマビコさんは、そうです、ヤマビコさんは、あなたにプロポーズをしたがっておられます」
とミノリを見る。
「何ですって!」
ミノリとミヤコは思わず顔を見合わせずにいられなかった。
ヤッタァーと二人揃って、雄叫びを上げたいくらいだが、そこはおしとやかさを装って我慢していると、
「いかがでしょうか。プロポーズをお受けいただけますでしょうか」と使者の若者はお願いしてくれる。
「そ、それは、モッチロン」
ミノリより先、ミヤコがこたえると、それではさっそく参りましょうと姉妹を、もう自分が乗りつけて来たジープに乗せた。取り残されるばかりのサヤ子は、ぼんやり見送るしかない。
五日前まで山小屋を借りていた場所に再び着き、二人を降ろすと、使者の若者は、おーい、ヤッホーと山に向かって、爽やかな声で呼びかける。
すぐにも、おーい、ヤッホーとヤマビコが返って来た。
自分達が幾度試みてもうまく行かなかったヤマビコさんへの呼びかけを、この若者は難なく果たす。
「ハイ、お二人もどうぞ」
と勧められるまでもなく、ミノリとミヤコは、おーい、ヤッホーと呼びかける。
うまく、いった。何度やっても、おーい、ヤッホーとヤマビコさんが返ってくる。
ほらね、とニコニコしながら、若者は、ヤマビコさんは、かくも、お二人をお気に入り、さっそくご婚礼の儀を催しましょう、と気が早い。
「そ、そんな。もう、ですか」
とさすがに些かのためらいを見せるミノリを、「おねえさん、善は急げヨ」とミヤコが促す。頷くミノリの肩を抱くようにして、若者は山小屋へと向かわせた。
「お待ちしていたよ」
彼らを迎えたのは、山小屋の管理人を称していたあの杖を付いたおじいさんである。
彼ばかりでない。なんと、その隣には、母親のサヤ子がいる。
「お、おかあさんったら、どうして、こんなところに!」
母親のサヤ子は、にっこり笑った。姉妹がこれまで一度も見たことのないようなやさしく、おおらかな笑顔だった。
「な、なんだかね。気が付いたら、ここにいましたって感じなんだけれども」
サヤ子は何だか照れくさそうな顔もしている。
「結婚式は、わたしらが先ってことだな」
おじいさんが横から、口を挟む。
「ケ、結婚式? わたしら?」
ミノリが訊けば、そうじゃよとおじいさんは母親サヤ子の手を握る。腕を組む。
「――そういうわけなのよ」
サヤ子は笑顔にターボを掛ける。
「いつの間に、お知り合いになったの?」
「それはまあ、ついさっきと言えば、そうなんだけれども。ずっと前から、知り合っていたというそんな気もする。つまり、これが御縁というものだろう」
おじいさんの闊達な物言いに、サヤ子は何度も頷く。
「わ、わたしは、どうなるんです?」
ヤマビコさんからプロポーズを受けるはずの自分より先、母親がケッコンする?
こんなことがあるのか。あっていいのか。訊ねる相手は、あの使者との若者の他いないが、いや、実に若者は、何処を見渡してもいない。
慌てるばかりのミノリとミヤコに向かって、ボクはここにいるよ、とおじいさんが杖を放り出して、すっくと姿勢をただしながら、こたえた。
一つ山を越える。越えても、また次の山が来る。また越える。ようやく、ヒト休みが出来るか。安心しかけても、三つ目のお山がまた来る。三つ目のお山を越えれば、四つ目の山がまた待っていそうだが、恐れることはない。今の自分には何しろ、お連れ合いがいてくれる。一見、杖を付くおじいさんであろうと、凛々しき若者にも時に身を変える。ヤマビコさんは、やっぱり凄い。
夫を急の事故で亡くして以来、喫茶店を経営しながら、二人の子供を育てて来た自分にも、ようやく、お楽な日々がやって来るというものだろうか。
一見おじいさんの振りをしているが、このヤマビコさんはヤマビコさんであるだけあって、時に凛々しき若者にもなれば、森のリスやイノシシや飛ぶ鳥や昆虫にだって変身できるらしい。ヤマビコさんは、やっぱり凄い。
面白い人生が送れそうだ。ホッと息を吐く合間にも、見る見る時は流れ、サヤ子は、頭に雪にも負けない白髪を戴くほどにもなった。
「おまえさんも、いつの間にやら、おばばさんになったね」
「そうですか。自分でも気が付かないうちに……」
「それで、よい。いつの間にやら、歳を取る。それだけ平和平穏だというわけだ」
ありがたいことです、と落涙の思いで有り難がるサヤ子婆は、ふと長らくも娘二人に会っていないことに気付く。
「どうしているのでしょう、あの子達」
透かさず、お連れ合いのヤマビコ殿がこたえる。
「あの子達は、とっくに、ヤマビコ娘になっておるよ」
「ヤマビコ、娘?」
「ああ、そうだ。
そうですか、とサヤ子婆は、遠くのお山を見た。
ヤマビコ娘になっておるのなら、呼んでみましょうかな――
おーいとまず呼び、ヤッホーとも呼びかけてみるが何も返事はない。
ミノリーとも、ミヤコーとも名前そのもので呼んでみると、間近で些かの風が舞った。
ほら、もうやって来たことだ、とヤマビコ殿が、あたりの空気を撫でる素振りをすると、些かの風の舞いは俄かに、サヤ子婆の頬を掠めて過ぎる。
あんた達、達者でね。サヤ子婆は、今一度遠くのお山を見、深く深く頷くのだった。
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