第九章 ①⓪⑧

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第九章 ①⓪⑧

通常の学校生活に戻るまで、それから2週間を要した。それでも町のあちこちにはまだ瓦礫が山積みにされていて、大人達は未だ普通の生活からは程遠い日常を送っていた。道路を走る車は乾いた土煙りを上げ、歩く人は皆、眉間に皺を寄せながら手で口を塞いだ。 河川近くの民家は氾濫した水によってほとんどの家屋が2階まで浸水し、その土砂を取り除く作業に追われていた。平家の家屋の殆どは倒壊しており、住んでいた住民の行方もわからない者が数名いたようだった。 そのような町並みを見ながら、永剛は久しぶりの登校に、気持ちを昂らせていた。その理由は拾った手にあった。 その手は登校する日まで腐らせないよう冷凍庫で保管してあった。だからつけたくもない冷蔵庫の電源をつけっぱなしにしておく程だ。 その女性の手が今、氷を入れたビニール袋に手を入れたビニール袋を入れ二重にした状態で永剛の鞄の中にしまわれている。この手を学校に持って行く理由は1つしかなかった。それを思いついたのはほんの数日前の事だった。永剛はそれまでの数日、暇を見ては凍った手を眺めて頬を緩ませていた。 教室に入ると皆、疲れた表情を浮かべていた。災害前までの元気は土砂や濁流と一緒に流されたようだった。 教室の隅に集まって喋るような生徒もおらず、静けさだけが教室内に沈殿していた。ホームルームが始まると、ここに全員の姿がある事に少しガッカリした。 誰か1人でも死んでいれば面白かったのに。そんな風な事を思いながら永剛は担任の話に耳を傾けた。その後、体育館で全校集会が行われた。そこで校長先生から2年の生徒が亡くなった事を知らされた。 だが、その生徒は災害ではなく、夏休み中の水難事故で死んだようだった。永剛はその生徒にガッカリさせるなよと言いたかった。どうせ水難事故で死ぬのなら、洪水か土砂崩れで死ねば良かったのに。本気でそう思った。 永剛はその水難事故で亡くなった上級生を災害で死んだ設定に置き換え、その姿を思い浮かべた。水をたっぷり含んだ上級生の腹部は風船のように膨らみ、青白い皮膚は爛れ、漂流中に魚に突かれ眼球は飛び出し、体内に溜まったガスが暑さによって破裂し内臓が飛び出した状態で土手に打ち上げられていた、死ぬ時くらい盛大にした方がいい。 永剛は話の長い校長先生に辟易しながら、頭の中でこの夏に水難事故で死んだ上級生の腐乱した死体の映像を思い浮かべていた。 きっと最大に腐乱していれば簡単に潰せる筈だ。だが、恐らくは耐えきれない程の腐臭に見舞われるだろう。自分にそれが我慢出来るかはわからなかったが、いつか腐乱死体を見てみたいと思った。 教室に戻り10分の休憩時間を挟み、2時限目の授業が始まった。 先生達は、災害が起こる前と同じように振る舞っていたが、少なからず生徒が1人死んだという現実に打ちひしがれているようだった。 それでも、先生達は生きている生徒の為か、もしくは自分の為に集中して授業を行おうと努力をしていた。 誰もが黙って授業を受けていた。普段なら揚げ足を取っておちゃらける奴等も、今の所は大人しくしている。 お陰で授業に集中出来た。夏休み中に全ての教科は予習済みだったので、授業は答え合わせのようなものだった。 4時限目の途中で、永剛は机の中にしまっておいた手を引き出しそれをポケットに入れた。 そして先生がこちらを向いている時に手を挙げた。 「英、どうした?」 「具合が悪いのでトイレに行って良いですか?」 「吐きそうなのか?」 「はい」 「わかった。なら行って来い」 永剛は静かに立ち上がり先生へお辞儀をした。 そして教室を出ると、とある場所へ向かって歩き出した。行き先は給食室だった。 4時限目が始まる前、給食の配送トラックが校内に入って来たのを永剛は見届けていた。そしてつい先程、そのトラックは校内から出て行った。それを見た永剛は、先生に向かって手を挙げたのだった。 人がいないか確認しながら給食室へ忍び込んだ。目的のクラスの給食用食缶は直ぐに見つかった。3年3組とマジックで書かれてある大きな食缶の前で足を止め後ろポケットに入れてある薄いキッチン用手袋を取り出した。それを着けてから食缶の蓋を開けた。どうやら今日は豚汁のようだった。 永剛は蓋を持ったまま給食室の入り口を確認する。人の気配はなかった。一呼吸おいてからポケットに手を入れ、ビニール袋に入った例の女の手を取り出した。 乱雑に袋を破くと溶けた氷と一緒に女の手を食缶の中へ落とした。底へ沈むのを確認すると永剛は食缶の蓋を閉め、ビニール袋をポケットにしまった。 急いで給食室を出てトイレに向かった。 唯一の様式便器があるトイレの個室に入り、扉を閉めた。便座の蓋を下ろしそこへ腰掛けた。 一息つくと、段々と心臓が高鳴って行くのがわかった。ドキドキとワクワク感が永剛の血液を沸騰させる。心臓が破裂しそうな程、膨らんでいる気がした。 3年3組は永剛のクラス1年4組の真上にあった。 そのクラスの給食に土砂の中で見つけた手を入れたのだ。そのような事をするのは当然、ワケがあった。 ウシガエルの怨みだ。3年の奴等は永剛が、苦労して捕まえたウシガエルを4匹も盗んで行った。おまけにそのウシガエルの身体に爆竹を仕込み、永剛達のクラスのベランダへ向けて垂らし爆発させウシガエルを殺した。 ウシガエルを殺す事については何とも思わなかった。ただ、奴等は自分のウシガエルではなく、永剛のウシガエルを盗み殺したのだ。それが許せなかった。 だからこの仕返しを思いついた時、笑いが止まらなかった。偶然にも夜中にカエルの鳴き声を聞きこの仕返しを思いついたのだが、その時、自分でもこれ以上にない仕返しだと思った。 そして仕返しが実行されるまで後、10分もなかった。永剛は直ぐに立ち上がりトイレから出ていった。 激しい動悸がする中、教室に戻る途中で終了のチャイムが鳴った。永剛は廊下をゆっくりと歩き教室へと向かった。静かに席につき、時計を眺めた。給食が運ばれてくるまで、およそ3分程度だ。上階の3年先があの手に気づくのはいつぐらいだろうか。 馬鹿な生徒が、豚汁の具が底に沈んでるからと、救ってでもしたら、発見も早まるが、それも給食係の手にかかっている。永剛は自分の教室に運ばれて来た給食を受け取り、その時を待った。 上階から女生徒の悲鳴が聞こえたのは給食の不味いパンを2口食べた時だった。複数の人間が走り回る足音が天井に響いている。 騒然とした3年のクラスから、男女の騒めく声が窓ガラス越しに届いた。永剛はクスクスと笑いながらゆっくりと給食を食べていった。廊下を走る慌ただしい足音と数人の先生達の怒鳴り声が各教室へと向けられた。 「お前達、豚汁どうした!?」 「どうしたもこうしたもないよ。給食なんだから食べるに決まってるじゃん」 未だ名前も知らない男子生徒がそう言った。 先生は直ぐに豚汁の食缶を改め始めた。 「先生、何かあったの?」 「ん、あ、まぁ、その、あれだ」 担任は言葉を濁しながら再度、食缶の中を確かめた。他の先生に切断された指でも入っているかも知れないと、吹き込まれたのかも知れない。 「毒でも入れられた?」 別の男子が言い、続けた。 「3年の教室から悲鳴、聞こえたし」 その男子の横の席の女子が口を開いた。 「毒?嘘?本当?」 「なら別の何かが入ってたんだね」 誰かが続けた。 「それも先生達が大騒ぎする程の物が」 遠藤冴子が会話に入りそう言った。 「皆んないいか?これ以上、給食は食べるんじゃないぞ。後、体調が悪くなるような事があれば、直ぐ先生に知らせるんだ。いいな?」 「お昼休み、グランドでサッカーしても良いですか?」 空気の読めない馬鹿な男子が先生の言葉の後で、間抜けな事を言った。 「こんな状況で遊んで言い訳がないだろ!」 と先生がその生徒を怒鳴るが、永剛以外の生徒は今、学校内がどんな状況なのかわかってる者はいなかった。 先生の態度から、給食の食缶に異物が混入されていたらしいと言う事は理解はしていただろうが、それ以上の事はまだわかる筈もなかった。おまけに殆どの生徒は既に給食を食べ終えていて、生徒達は既に足掻いても仕方ない状況下に置かれてしまっていたのだった。 「先生が良いというまでトイレ意外で教室を出るのは禁止。午後の授業は2つとも自習になったから、お前達大人しく予習しておくんだぞ?いいな?」 先生は語気を強めながらそう言った。 「先生、何があったのですか?」 クラス委員長が尋ねた。 だが先生は落ち着いたら話すからといい教室から出て行った。 1時間もしない内にパトカーが1台と他の警察車両と思われる車が、2台学校へやって来た。 それを見つけた他のクラスの生徒達のざわめきが壁を挟んだ隣から聞こえてくる。もれ伝わったざわめきは徐々に広がりを見せ、自習中の静かな教室内に響き渡った。 「大丈夫かなぁ」 男子の声がした。 「毒とか入ってないよね?」 不安げな声でいう女子の言葉に他の女子が続いた。 「毒なら私達、とっくに死んでるよ」 何処か達観した風に語った。だがこのような奴に限って内心は泣き出したいほど怯えているものだ。安心しろ。入っていたのは毒じゃなく、ただの女の手だ。それも3年4組の為だけの、人体の部位で出汁を取った特別な豚汁なんだ。 永剛はその女子に向かってそう言いたかった。 だが、勿論言うわけにもいかなければ、いうつもりもなかった。 とにかくこれでウシガエルの恨みを晴らす事は出来た。永剛は満腹時に似た満足感を得ながら、教科書を広げ俯き、その文章へ目を通した。
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