第八章 ①⓪①

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第八章 ①⓪①

放課後、下駄箱で靴に履き替えた永剛は誰と言葉を交わす事なく校舎を後にした。 今朝のニュースでは梅雨に入ったと行っていたが、雨はおろか、空は真夏のような青さだった。 立っているだけで汗が滲んで来て、額に浮き出た汗が頬を伝い首筋へと流れて行く。 幼い頃からそうだったが、夏休み以外の夏は好きではなかった。何故なら衣類のシャツの襟が直ぐに汚れ、真っ黒になるからだ。それを落とすのは中々大変で、帰宅時に毎日つけ置きし手洗いをするのはとても面倒でそれが無ければ夏は嫌ではなかった。 虫や爬虫類等があちこちに現れ、その都度捕まえてはゴキブリの餌にしたりした。本格的な夏が来れば蝉や蝶などの幼虫や蛹を叩き、潰すのが永剛の楽しみの1つだった。 特に蝶や蛾の幼虫は潰しがいがある。人や両性生物とは違い、昆虫類の幼虫からは真っ赤な血は流れず、代わりに濃い茶色の体液が飛び出した。永剛はそれを見るのが好きだった。 まるで新しい世界を目の当たりにしているようでとても新鮮だった。そんな季節が間近に近づいている。永剛は帰り道に河川に寄ろうと思った。 梅雨になればカエルも活発に動き始めるからだ。だが、それは理科の実験で解剖をする前までの話だった。 今はそれほどカエルに興味をそそられなかった。 けれど自分で解剖してみたい、少なからずそのような気持ちは永剛の中にあった。だから今日、河川に寄ってみようと考えたのだった。 そのような事を考えていると、校門の所で遠藤冴子とバッタリ出くわした。確か遠藤は自分より随分先に教室から出て行った筈だ。それがどうして……? 永剛の疑問も他所に遠藤は何も言わず、永剛が通りすぎて行くのを見守った。永剛は永剛で気にはなったが、そのまま歩いて行った。 しばらく歩いていると誰かに見られているような視線を背中に感じ、足を止め後ろを振り返った。すると直ぐ後ろに遠藤冴子が立っていた。  「英さぁ」 今朝もそうだったが、遠藤はいつしか僕の事を呼び捨てで呼ぶようになっていた。別に構わないし、そう呼びたくなる気持ちもわからなくもない。クラス全員から総スカンを食らった僕と君呼びやさん呼びで呼び合ったなら、周りから永剛に気を許したと勘違いされてもおかしくないからだ。それを恐れて遠藤は僕を呼び捨てにしたのかも知れない。呼び捨ては何も仲の良い友達にだけ使われるものではなく寧ろ永剛の今の立場を踏まえると遠藤のその言葉には永剛に対する大きな侮蔑が含まれていると考えられた。 「何?」 「いちいち私が言う事じゃないけどさぁ……」 「なら言わなくていいよ」 永剛はいいそっぽを向いて歩き出した。 「どうしてあんな事したのよ」 遠藤は永剛の後をついてきながらそう言った。 「あんな事ってどっちの事だよ」 呼び捨てにするならこっちだってそれなりの態度を取らせて貰う。図書室で借りていた本の時は下手に出たが今はそのようにする必要はない。遠慮なんてしていられるか。永剛はそのように考えつっけんどんに返した。 「どっちもよ」 どっちも?ウシガエルの事ならまだしも、今朝の事なら考えたら分かりそうなものだろう。 永剛は呆れたという風に肩を落とし溜め息を吐いた。 「いちいち説明しなくちゃ駄目なのか?」 「英があんな風にするから皆んな、英の事怖がってるんだよ?」 遠藤が不良という意味で言っていない事は直ぐにわかった。自分の頭で理解出来ない範疇の物事を目の当たりにすると、人は恐れを抱くものらしい。 何かの本でそのような事が書かれてあった気がする。 きっと遠藤のいう恐れとはきっとそっちに分類されるのではないか。自分に対して感じているのもそれだろう。 「理由なんてないよ。寧ろ僕に対してした事の方が理解出来ないね」 「それは、英が、解剖の時に……」 「時に、何?」 「いきなりカエルを殺したりするから」 「生き物を殺したら、そいつに対してあんな陰湿な事をやってもいいんだ?」 「良くはないよ。だから私は止めたんだから」 「ならそれで良いじゃん。遠藤は画鋲を椅子に貼り付けるのは間違いだと思った。そんなやり方は間違っていると。だから止めた。けど他の奴等は自分の目の前でたかがカエルを叩き潰されただけで、まるで正義の味方気取りで嫌がらせをして来た。僕に言わせるならそんな奴等にどう思われようが関係ないね」 「だとしてもカエルを殺す事はないと思うけど」 「遠藤は歩いている時に、蟻を踏みつけた事くらいあるだろう?人間なんて身勝手な生き物だから、知らない内に生き物を殺したのは関係ないと思うんだ。知らなかったら許されるのか?違うだろ?故意だろうがそうで無かろうが、結果的に殺したのならそれが変わる事はないんだよ」 「そんなのはただの屁理屈よ」 「そう思うのも遠藤の自由さ。けど反対にそう思わないのも自由だ。遠藤は聞いたよね?どうしてカエルにあんな事をしたのかって?」 「うん」 「なら教えてあげるよ」 永剛はいい再び歩き出した。 「何よ。早く教えなさいよ」 永剛は遠藤の言葉を無視して歩き続けた。 知りたいと言う好奇心とこれ以上関わってはいけないかも知れないという不安。その2つが遠藤の中でせめぎ合っている。永剛は遠藤がそのどちらを選択するか見てみたかった。 しばらく歩いても遠藤はついて来た。どうやら好奇心が優ったようだ。 「いつまで黙ってるつもり?」 いい加減にしてよ。遠藤はそう言った。 振り返ると足を止め膨れっ面でこちらを睨んでいる。 まるで欲しい物を買って貰えなかった子供のようだ。 今にもその場に座り出し手足をバタつかせ泣き出しそうな顔をしている。遠藤の気の強さは自分の弱さを隠す為にわざと、そのように演じているのかも知れない。 「わかったよ」 永剛はいい、遠藤に向かって一歩踏み出した。その時の遠藤の表情を永剛は見逃さなかった。 一瞬、表情が固まり、唇を強く結んだ。 背筋が曲がって見えたのは緊張している証だ。緊張で筋肉が収縮したに違いない。なるほど。遠藤も僕の事を恐れているのか。 けど、皆んなの前で気の強い姿を見せている以上、他の生徒の疑問は解消してあげないと、と遠藤は自ら気持ちを奮い立たせ僕を待ち伏せしたのだろう。くだらない。知りたいなら本人が尋ねて来ればいい。 言葉巧みに、他の生徒からいいように利用されてるのが、遠藤は気づかないのだろうか。それともこの3か月で築いた今の立ち位置が崩れるのを恐れ、否が応でも僕を問いたださなけれならないと、ある種、追い詰められた状態で今、こうして僕の前に立っているのだろうか。 健気というか、惨めというか、永剛はそんな遠藤を不憫に思った。クラス内の立場なんてどうだっていいし、どうにでもなるものなんだよ。そう言いかけて永剛は言葉を飲み込んだ。今はそれをいう時じゃない。それに今、遠藤が知りたいのはクラス内での立場などでは無いのだ。 「許せなかったからだよ」 「許せなかった?何を?」 「そこまで答えると言った覚えはないよ」 遠藤はしまったという顔で微笑み返し永剛を睨んだ。 「本当、英って性格悪過ぎ」 「悪かったな」 「そんなんじゃ、一生彼女なんて出来ないよ」 「それこそ大きなお世話だよ。そっちこそ、いつまでも自分自身に嘘をついていたら、彼氏なんて出来ないからな」 図星だった。永剛の言葉に遠藤冴子は 「うるさい!英なんかに私の何がわかるっていうのよ!」 そう怒鳴り、学校の方へと引き返して行った。 永剛に見透かされた事によほど悔しかったのだろう。 けれど言って良かったと思った。 この先、遠藤がどのような学校生活を送りどのような大人になってどんな人生を送るかはどうでも良いが、それが出来るのは彼女自身でしかない。 さっきの自分ではないけど親や友達では、忠告までが限界だ。大きく人生を左右出来る存在なんてどんな人間にだっていやしない。ただ聞く耳を持っているか、いないかで変わる事はあっても、それを選択するのはあくまで本人以外にはない。だから僕だって遠藤冴子の人生を変える事なんて出来ないのだ。 くだらない事で時間を取られたなと永剛は思った。外は少しばかり暗がりが広がり初めている。それでも永剛は目的地である河川へと向かって行った。
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