第八章 ①⓪⑥

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第八章 ①⓪⑥

10月に入るとマリヤは、毎夜うなされるようになった。最初は僅かに顔をしかめる程度だったものが、中旬に入る頃には何かに憑依されたかのようにベッドの上で暴れ、最後は決まって悲鳴をあげ跳ね起きた。 時には瞼を閉じたまま涙を流し、また別な時は見えない何かに怯え全身を震わせた。そんなマリヤを圭介は黙って抱き寄せ時間をかけて背中を摩ってやった。 すると数分もすればマリヤは落ち着きを取り戻し、再び深い眠りに落ちて行った。翌朝、マリヤに昨夜のことを尋ねてもマリヤは何一つ覚えていなかった。 再度問いただした圭介にマリヤは面倒臭そうに繰り返し覚えていないと返した。 うなされた原因も、自分がうなされ跳ね起きた事も全く覚えていなかった。幾ら何でも跳ね起きる程の事なのだから覚えていない筈がないと圭介は思ったがその事は口に出さなかった。よくは知らないが、マリヤはひょっとしたら夢遊病みたいなものに罹っているのかも知れない。 夏が終わる頃までこのような事は起きていなかったのだから、僅か数週間の間でマリヤ自身の身に何かしらストレスを抱えるような事が起きたのだろう。だが寝ている以外の時のマリヤは至って普通だった。相変わらず映画を観るかスマホでゲームをするかで、1日の大半を過ごしている。その姿からして、ストレスとは無縁に思われるが人は思いもよらない所からストレスを抱えて来る事もあるようだった。本人も覚えていない事を踏まえるとストレスの原因となる事も、気づかずにいるのかも知れない。 圭介の食糧の買い出しにも付き合う事もあった。わざわざゴスロリ衣装に着替えさせ車椅子に乗せる圭介に対し不満を見せる事もあったが、文句一つ言わず反抗はしなかった。 そんなマリヤの事は気にしないでおこうと思いもするが、毎夜、側で悲鳴を上げられたら、気にするなというのは無理な話だった。飛び起きたマリヤを何度かほったらかしにしてみた事もあったが、夢遊病者のように徘徊する事はなく、その場で喚いたり手足をバタつかせたりする程度の事だった。 だがそれが起きた時に圭介が抱きしめなければ、悲鳴や嗚咽、涙や震えは中々治らなかった。ずっと続くというわけではなかったが、それでもかなり長い時間、マリヤはその恐怖に苛まれているようだった。 当然のように、圭介にほったらかしにされた日の朝も目覚めたマリヤは自分の身に起こった事の全てを覚えてはおらず、普段通り寝起きにスマホを手に取るとしばらくの間、ベッドの中でいじったりしていた。 顔色は良く食欲もあった。映画やスマホゲームに飽きると圭介の筋トレに付き合ったりもした。バラエティーを見て馬鹿みたいに笑ったりもした。体調的には何一つ問題は無さそうだった。なので病院に連れて行くという考えもいつしか薄れていった。下手にこちらが必要以上に心配をするのもどうかと思ったのだ。 だから、しばらくは様子を見る事にした。 一体、マリヤがどのような夢を見ているのか圭介は気になった。泣き、喚き、暴れるほどの夢だ。マリヤにとってそれはとても恐ろしいものに違いなかった。世間には夢診断というものや夢占いといったものが存在するが、その夢自体を覚えていないのだから、それすら参考に出来ない。これも一種のトラウマかも知れないと考えるようになったのはつい先日の事だった。マリヤがうなされている最中、初めて聞き取れる言葉を吐いたのだった。その言葉を聞いた時、圭介はマリヤはストレスを抱え何かしらの夢を見ている訳ではなく、そもそも抱えていたトラウマが、何かの拍子に目覚めたのだと思った。 「私じゃないもん」 確かにマリヤはそう言った。 圭介の頭の中で、マリヤが吐いたその言葉から思い当たる節へと記憶が遡って行く。それは直ぐにある人物の言葉へと辿り着いた。 吉田萌か。萌はマリヤがまだ幼少期の頃、萌のお婆ちゃんを殺害したと言った。実際、殺害されたお婆ちゃんの側でマリヤは血塗れの姿で発見されている。もしそれが本当の事であれば、マリヤが吐いたあの言葉は、それを全面的に否定している事になる。マリヤが見ている夢は、当時、警察や親から話を聞かれている時の事のように思えた。それが形を変え夢としてマリヤの中に現れているのかも知れない。だが、否定しているにも関わらず何故?悲鳴を上げたり暴れたするのだろう?そこまで行くと圭介にはピンと来た。 マリヤは当時、吉田萌のお婆ちゃんを殺害した犯人の顔を見ているのかも知れないと考えたのだ。もしそうであるならあの怖がり方も理解出来る。否定している事も納得が行く。そもそも幼少期の女の子がお年寄りとはいえ、惨たらしく殺害出来るだろうか?難しいが、無理ではないと圭介は思った。圭介の想像が正しいと過程すれば当時、捜査に当たった刑事もそのような事は可能と判断し、マリヤを尋問したのかも知れない。その事がずっとマリヤの中でトラウマとなっていて、ついに目覚めたと言った所だろうか。 ならば引き金は何だ?笹野ゆうこ殺害か?だとしてもそれでは余りに時間が経ち過ぎじゃないか。笹野ゆうこを殺害し、解体中に大量の血液を見た時点で、マリヤに異変が起きてもおかしくない。だがそれは1か月以上も前の話だ。 そんな後になってからそのような事が起きたりするものなのだろうか。それとも幼少期、無意識下へと封印した凄惨な過去を開くにはそれほどの期間が必要だと言う事だったのだろうか。 自分は専門家じゃない。それに心理学を学んだ事もない。だから「今のマリヤの深層心理はこうだ」なんて言うつもりも、信じるつもりもなかった。 ただ、毎夜うなされる事から解放してやりたいだけだ。それが心理学に繋がると言われてしまえば身も蓋もないが、心療内科に行き、診断し薬を飲むような事はさせたくなかった。精神鑑定も同じだ。そもそも一般の人間が簡単に精神鑑定を受けられるのかは疑問ではあるが、 起きている時のマリヤに異変を感じていない以上、圭介の判断で行動するのはやはり時期尚早だと思った。 とりあえずしばらくは様子を見て行くしかなさそうだ。 そんな矢先の早朝、魚釣りから帰宅している最中に吉田萌から連絡があった。 「見つけたわよ」 電話に出るなり吉田萌はそう言った。 吉田萌が英永剛の事を言っているのは直ぐにわかった。だが、圭介はわざと軽い口調で、そのように返事をしたのだった。 「朝っぱらから電話して来たと思ったら、いきなり見つけたわよって、意味わからないんだけどな」 「前電話で話したじゃない」 「どんな話だったっけ?」 「全く白々しいわね。英永剛の事に決まってるでしょ」 数秒おいてから圭介は返事をした。 「あ、あぁ。悪い。確かにその話してたな」 圭介の返事に萌は、ハッキリと聞こえるように舌打ちをした。 「で、どうするつもりなんだ?」 「殺るに決まってるでしょ」 「そうか」 「勿論、手伝ってくれるわよね?」 「それは無い」 「どうしてよ」 「個人的な事には関わりたくないからさ」 圭介が言うが早く電話は切れた。 手伝う義理なんてない。仮にも英永剛はラピッドと関わりあいがある人間でもある。漂白者同士殺し合って何の得があると言うんだ。何もありはしない。 怨みか復讐か知らないが、それを果たしたいなら自分の手で行えばいい。そこに誰かが介入したりすればまた新たな復讐の連鎖が産み出されてしまう。そんな事に巻き込まれるのは御免だった。自分には家族がいる。そして秘密にしているマリヤの存在だってある。 そんなリスキーな事を抱えた状況で他人の復讐になんて手を貸せるわけがなかった。 圭介はスマホを助手席へ放り投げ、馬鹿な女だと呟いた。
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