第九章 ①①⑧

1/1
前へ
/191ページ
次へ

第九章 ①①⑧

明山未子が拘置所内で首を吊って自殺を図ったとの報せを受けて小川と泡沢は急いで県警を飛び出した。 連絡によれば明山未子は意識不明の重体らしい。 「チッ」 助手席に乗り込んでからずっと小川さんは舌打ちをし続けていた。誰が乗るか決められていない警察車両は全車両禁煙車にも関わらず小川さんは煙草に火をつけ、舌打ちと共に紫煙を吐き出した。泡沢は運転席と助手席の窓を半分開けて車外へと煙を流して行く。 正直、自分も煙草が吸いたかった。何年もの間、寝起きに一本吸うのが習慣となっていたが、流石に横でそれだけ吸われると我慢するのも一苦労だった。 だが本当に吸いたい理由はそれではなく、明山未子に1人で面会に来いと言われていたのにも関わらず、行かなかった後悔からだった。自分自身に腹が立ちその怒りを外に吐き出せない為に煙草を吸いたかったのだ。 歳を取ると共に、感情の起伏が激しくなっているのを泡沢は感じていた。特に苛立ちや腹立ち、怒りなど、他者へ向けた感情がすぐに表に出ようとしてくる。例えば右車線を逆走してくる自転車に乗った奴などを見かけると、殺意に似た怒りが込み上げ、 「迷惑な事をするお前なんか死ね」 と内心毒づいたりしている。さすがにそのような奴を止めて注意したり殴ったりはしないが、日に何度もそのような怒りが自身の中で芽生えていた。 だが今、その怒りの矛先は自分自身へと向けられていた。 自然と運転が荒くなる。アクセルを踏む足の爪先も力が入る。いっときも早く木更津総合病院へ着きたかった。 それは小川さんも同じだろう。見た事のない貧乏ゆすりまでし始めている。それほど明山未子の自殺にショックを受けたに違いない。泡沢自身も明山未子が自ら命を絶とうするタイプとは微塵も思っていなかった。 家主を殺害し、平気でその本人になりすまし生活するような人間だ。精神が図太くなければ出来やしない。そんな人間が自殺だって?連絡を受けた時、まず最初に思ったのはあり得ないという気持ちだった。だが幾度と繰り返し尋ねても刑務官からの返答は同じだった。 そんな状況から飛び出した泡沢達だったが、未だ冷静さを取り戻せてはいなかった。 途中、10分程度の渋滞にハマると2人はイライラの頂点へ達しかけていた。 いきなり小川さんは投げ出した足でダッシュボードを蹴飛ばした。フィルター近くまで吸い込んだ煙草を窓から投げ捨てる。 「小川さん」 「何だよ」 「この車、禁煙車なんですよ」 「今更言うんじゃねぇ」 「後、いくら何でもポイ捨てはマズいです」 「ポイ捨てなんかしてねぇ。指が滑って落としただけだ」 「そうですか。なら仕方ないですね」 「おい、泡沢、この渋滞何とかしろ」 「出来るならやってます」 「んな事は言われなくてもわかってるよ」 小川はいい、吸った先から煙草に火をつけた。 「僕にも一本貰えますか?」 「お前、吸うのか?」 「1日1本だけですが」 「それが今ってわけか」 「いえ、それを吸ったら2本目になります」 「テメーで決めたルールを破ろうってわけか」 「そうですね。今はそんな気分なんです」 「その気持ち、わからねぇでもないな」 小川は煙草を取り出して泡沢に手渡した。 口に咥えると小川が火をつけてくれた。 「大先輩からの命の恵みだ。よく味わって吸うんだぞ」 「はい。ありがとうございます」 自分が吸っている煙草より、タールが強いのか吸い込むと肺がギュと搾られる感覚に襲われた。だが煙を吐き出すと、腹の中に溜まった苛立ちが、僅かだが一緒に吐き出された気がした。これで少しは落ち着けるなと泡沢は思った。 病院の敷地内へ車を乗り入れると小川さんだけ先に降ろした。ドアを開け駆け出す小川さんの背中を見ながら泡沢は一般専用の駐車場を探した。 シートベルトを外し開け放たれたままの助手席を閉め泡沢は車を移動させた。 専用駐車場に車を止め病院の受付へと向かった。警察手帳を提示し、救急で運び込まれた明山未子の居所を尋ねる。 「息は吹き返しましたか?」 受付のナースは私には分かりかねますと言うと直ぐに俯いた。その仕草を見て泡沢は背筋に痺れのような震えを感じた。 泡沢は小さくお辞儀をしナースに言われた階数へ向かった。階段を一段飛ばしで駆け降りる。左右を見渡し小川さんの姿を探したが、既に病室内に入っているのか姿は見当たらなかった。 泡沢は受付で聞いた病室番号を確認しながら、そちらへと向かった。部屋の扉の把手に手を伸ばしたその時、向こう側から扉が開いた。肩を怒らせ顔を真っ赤にした小川さんと鉢合わせた。その姿で改めて明山未子がどうなったのかを悟った。 「帰るぞ」 小川さんはいい1人歩き出した。泡沢は締まりかけた扉の把手を掴むと、もう一度開き病室内へ踏み行った。 中には2人の木更津拘置支所の刑務官の他に医師と看護士の3名がベッドに横たわる明山未子の遺体を見下ろしていた。 泡沢の存在に気づいた1人の看護士が、視線を医師に向けると同時に全員が泡沢の方へと振り返った。泡沢はその人達へ頭を下げると扉を閉め、小川の後を追った。 口には出さなかったが泡沢は明山未子が助かる事を心から願っていた。殺人を犯した犯人には違いないが、それでも行き詰まった連続殺人鬼、鰐男の逮捕の為に明山未子の言葉を再度聞きたかった。後悔先に立たずというが、まさにその通りの結果を身をもって体験した泡沢は、自分の不甲斐なさに肩を落とした。 明山未子は泡沢に「ラビュー」と言う言葉を残した。 今更ながら明山未子が亡くなるまですっかりその言葉を失念していた事に泡沢は気がついた。 「ラビュー」と言うのは一体、どんな意味だったのだろうか。その答えを知っている人物は自らその命を経ってしまった。何もかも手遅れだったのだ。他にもやる事が沢山あったんだよと、そのような言い訳は出来るが、自分との折り合いはつけれそうにないと、階段を降りながら泡沢は思った。 病院を出ると駐車場の車の影に隠れ小川さんが煙草を吸っていた。 泡沢は何も言わず鍵を開けた。 「人を1人殺した上に、理由はわからねぇが自ら首を吊った人間の死相が笑っていて良いと思うか?」 助手席に乗り込むと直ぐに小川さんはそう言った。 「え?」 「明山未子はな、人殺しの癖に綺麗な死に顔をしていやがった」 「そうだったんですか」 「見てねぇのか」 「はい。小川さんが帰ると言われたので」 「チッ、ま、いいや。とにかくあのババァは苦しみもがき死んだんじゃねぇ。自らの人生の幕を下ろしたにしては、とても気持ち良さげに天国へ召されたみてえだったよ」 「そんなに、ですか」 「向っ腹が立つほど、微笑んでいたよ」 「苦しまなかった、と言うことでしょうか」 「馬鹿野朗。首吊りが苦しくないわけないだろ?馬鹿みたいに苦しんだ筈だ。なのにあのババァは最後に微笑んだのさ。何故なら俺らが知らない秘密を持ったまま死んだんだかだ。きっとそれがあのババァの至福の喜びだったに違いない。だから笑って死ねたんだよ。全くあのババァはイカれてやがる」 「そうかも知れませんね」 「俺はな、泡沢」 「はい」 「私利私欲で人の命を奪った奴が、罪を償いもせず、簡単に自ら命を経って笑顔で死ぬなんて許せねぇよ」 「ええ、同感です。私もそう思います。自ら命を断つのであれば洗いざらい全てを吐き出して死ぬべきです。勿論、自殺は許せません。絶対に罪を償い続けるべきです」 「あぁ」 泡沢はエンジンをかけ駐車場から車を出した。 「木更津拘置支所へ向かいますか?」 「いや、いい」 「わかりました。なら戻ります」 泡沢が言うと小川は煙草を取り出した。何も泡沢に一本手渡した。受け取ると小川が火を差し出した。 「しかし、木更津の刑務官どももとんだ失態を犯しやがって」 「そうですね」 「追々、面倒な事になるだろうが、それでも、俺達の腹の中よりはマシだ」 「ええ」 「奴等は始末書か減給、もしくは降格か左遷で済むだろうが、俺達は一生、あのババァが隠していた秘密に悩まされ続けるんだ。歳取ると夜中に目が覚める回数が増えてやれないのに、今回のこれで今まで以上、眠れなくなる日が増えちまう」 小川はいい煙草を深く吸い込んだ。
/191ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加