第九章 ①①⑨

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第九章 ①①⑨

病院を出てからしばらくの間、車内は沈黙と紫煙で満ちていた。窓は開けているが、小川さんがひっきりなしに煙草を吸う為、逃げ出せない煙が後部座席の方で漂っている。 最初に口を開いたのは小川さんの方だった。 「なぁ、泡沢」 普段、お前やチンポ先生などと呼ばれていた為に珍しく苗字で呼ばれて、少しばかり照れ臭かった。 「はい」 「今回の鰐男の連続殺人もそうだが、お前は今まで関わった事件で被害者家族に会いに行ったことはあるか?」 「杉並警察にいる時に一度だけあります。新米の頃の話ですが」 「そうか」 「それがどうかしましたか?」 「俺はここ数年、行っていない」 「警察関係者は歓迎されませんから」 「あぁ。告別式に顔を出して被害者家族に犯人逮捕を約束しても、それが叶わない時だってある。それにこちらは懸命に捜査をしていても、向こうにとっては大切な肉親を殺されたわけだから、たった数日犯人が逮捕出来ないだけで、塩を撒かれたり無能呼ばわりされたりもする」 「苦しみや悲しみをぶつける場所がないのは分かりますが、それはこちらも同じなんですけどね」 「八つ当たりしたくなる気持ちもわかる。それで少しでも気分が晴れるなら、幾らでも喚き散らし塩を投げたって構いはしないけどな」 「ええ」 「俺達は八つ当たりを犯人逮捕の情熱に変えられるが、被害者家族は一生その悲しみの行き場はねぇんだ」 「恥ずかしながら、私もそんな被害者家族の顔を見るのが嫌でずっと避けて来ました」 「まぁ、俺も似たようなもんだ。こう言ったら何だが、行かなくて済むなら行かない方がいい。胸がキリキリと締め付けられ、何の為に刑事をやっているか、わからなくなる」 泡沢は頷いた。 「だが、中には敢えてそう言う場所に現れるホシもいる」 「鰐男がそうだと?」 「わからねぇ。既に5件の被害者の葬儀はとっくに終わっているし、確かめる術はねぇ。スナック天使のママも、お前が拉致られ命を救われた事件のガイシャもとっくに荼毘にふされている。怪しい人物を確認するには新たな事件が起きた場合、その時は逃げずに被害者遺族に会い、告別式、葬儀にも参列しなくちゃならねぇ」 「犯人逮捕の為とはいえ気が重くなる話です」 「まぁな。だが未だ第6の殺人は起こってねぇから、行きようはないが」 「起きないに越した事はありませんよ。もし起こるとしてもその前に自分達で犯人を挙げなければならないです」 「それが出来れば苦労しねぇよ」 「捜査本部も縮小されましたし、捜査員の人数も自分達だけです。限界はありますが、被害者や被害者遺族の為に、自分達も死に物狂いで足掻くしかありませんよ」 とは言ったものの、半年以上経過した今でさえ、確たる証拠も物証も出て来ていない。 あるのは唯一、自分が廃倉庫内で採取した、一部の指紋だけだ。だがそれも各当する人物は見つからなかった。防犯カメラも役には立たなかった。この時点で我々警察はお手上げ状態に陥った。それがわかったからこそ管理官含め上層部は捜査本部を縮小し、責任は小川さんや自分におっ被せて自分達は黙りを決め込むつもりなのだ。 それがわかってるからそ腹も立つが、現場の捜査はそんなに甘くない。見返す気持ちがあろうが無かろうが、捜査線上に浮かび上がる人物が1人もいなければ、自分達は迷路に迷い込んだ家畜のように行き場を失ったも同然なのだ。 「聞いてもいいですか?」 「何だ?改まって。気色悪いな」 「いえ、小川さんが、被害者遺族に会わなくなったのはどのような理由があっての事なのだろう?と思いまして。あ、勿論、答えたくなければ構いませんが」 「そこまで聞いといて答えないとこっちが罰が悪りぃだろ」 泡沢は前を向いたまま微かに微笑んだ。 「あいつがまだ生きていた頃にな、あいつってのはつまり俺の嫁の、妻の事だが……」 「はい」 「あいつの仲の良い友達、いわゆる主婦友って奴だ。その友達の娘さんが行方不明になってな。俺達は必死に捜索したが、結果的に娘さんは殺害されてしまった。遺体は河川敷の草むらの中で裸で発見され、性的暴行の痕もあった。ホシは小学校の研修中の若い教師だった。逮捕出来たのは良かったが、その事を2人で報告に行った時、その友達は俺達夫婦をなじったのさ。俺はあいつに来るなと言ったんだが、友達だからと言って聞かなかった。仕方なく連れて行ったが、あいつの友達は俺達夫婦を前にして散々、警察や俺の無能さをなじり、あげく、俺達は娘を殺したのも同然だと喚き散らした。八つ当たりだと言う事くらい、俺達もわかっていた。だがその友達は更に生きている内に娘を助けられなかったのは犯人と同罪だと言い、おまけに子供もがいないあんたら何かに私の気持ちがわかってたまるかと泣き喚き散らしながら妻を突き飛ばした。 確かに子を失った親の気持ちは俺達夫婦にはわからないかも知れない。だが子供が出来ない妻や俺の気持ちもその友達にはわからない筈だ。その事はその友達も知っていたんだ。なのに妻に向かってそのような発言をしたのさ。それから妻は随分と塞ぎ込んでな。当然のようにその友達とも疎遠になった。妻に対するよからぬ噂も流されたが、あいつはその愚痴を一切言わなかったよ。情け無い話、噂については後に知ったくらいさ。俺はその友達の気持ちはわからないが、それ以上に本音というモノを人は隠し続けているのだと妻の友達に改めて気付かされたよ。だからそれ以降、被害者遺族には会いたくないと思ったのさ。被害者遺族の本音は犯人に極刑を与える事と生きて被害者を戻せという2点だけだからな。神様だってその2つをクリア出来やしない。そうだろ?なのに遺族は俺達警察にそんな要求を押しつけてくる。返せる言葉なんか微塵もありゃしねぇよ。被害者遺族は皆、そのような感情を俺達にぶつけてくるんだ。こっちだって人間だ。理不尽な事を言われた腹も立つ。だがそんな事を言い返す訳にもいかなければ、言う事は許されない。被害者遺族ってのは怒りと悲しみの両輪が沸点に達した状態なわけだ。火中の栗を拾うみたいにわざわざそんな人間になんて誰が会いに行きたいと思うか?思わないだろ?」 泡沢は「はい」とだけ返事を返した。 だが本来であればやはり行くべきなのだ。 泡沢も小川もずっとそこからは逃げていたのだ。だから…… ここへ来てぶり返した風邪のように悶々と気持ちが泡沢の腹の中で燻り始めた。 それでも今更、鰐男に殺害された遺族に会う事は無駄なように思えた。会った所で今更、犯人に心当たりがありますか?と尋ねるのか?線香を上げさせて貰い、犯人検挙を誓うのか?検挙なら警察学校に入った時から誓っている。悔しいがそれでも出来ない時があるのだ。 泡沢は奥歯を噛み締めながら、当時の小川さんの事を思った。自分ならどんな気持ちになるだろうか。愛する妻に対し友人とは言えそのような言葉を吐かれたら、堪える事が出来るだろうか。現時点で妻を持たない泡沢に、当時の小川の気持ちが分かる筈がなかった。 とりあえず改めて鰐男検挙のモチベーションは高まった泡沢だった。 が、それとは対照的に小川さんは何処か寂しげな表情を浮かべ過ぎ去る街並みを眺めていた。 自分達に出来る事って一体、何だ?泡沢は県警に着くまで頭の中でその言葉を繰り返し続けた。
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