第二章 ①⑥

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第二章 ①⑥

楠木美佐江の自宅アパートを確認すると、その付近で張り込みをする事にした。 アパートは三階建てで、楠木美佐江の部屋は2階の左端にあった。一階に設置されてある集合ポストで部屋番を確かめ、その後に一度、玄関の前まで行った。 玄関の表札を確認したが、ここには名前は記載されていなかった。 ドアの前に立ち、耳をそば立てた。 気配が感じられなかった為に泡沢は2階のこの部屋の前から、楠木美佐江の住む玄関が見やすい場所の見当をつけその場を後にした。 時計を見ると16時近かった。無職という事であったが、第1の殺人事件からそれなりに月日は過ぎているので、ひょっとしたら今は働いているかも知れない。そう考え泡沢は張り込みを決めた。 19時過ぎまで待っても楠木美佐江は現れなかった。泡沢は仕方ないと諦め帰宅しようと地面に置いたバックを拾いあげようとしたその時、部屋のドアが開いた。 泡沢は慌ててスマホを取り出し、動画モードにした。画面をスワイプし、アップにする。中から出て来た女の顔を見て、泡沢は思わずスマホを落としそうになった。 楠木美佐江と名乗る第1発見者は、スナック天使で泡沢をギンギンに勃起させたミミという女だった。 ちょっと待て、と泡沢は思った。第1発見者だから、あんなに勃起したのか? 泡沢は動画を停止し、スマホをポケットの中へと押し込んだ。杉並警察にいた頃、第1発見者と話した事は幾度とかあった。 だが、勃起した記憶はない。その記憶が正確だとは言い切れないが、もしそのような事があれば忘れる筈はないし、捜査の時点で疑ってかかり、犯人の可能性を含めて話はしている筈だった。 やはり自分の記憶に間違いはないと泡沢は思った。となれば、やはり楠木美佐江は容疑者として考える必要がある。 泡沢は部屋から出て階段を降りていく楠木美佐江を眺めながら、小川さんに連絡を入れようと再びスマホを握りしめた。 その時だった。驚くほど勢いよくペニスが勃起した。間違いない。これは確定事項だ。この楠木美佐江と名乗る女は何かしらこの連続殺人事件に関与している。 泡沢はそう思い小川さん電話をかけた。つい今しがた、勃起した事を小川さんに伝えると、尾行は店に入るまでにしろと釘を刺された。非番の日に見つかりでもしたら、後々、面倒だからという事だった。 泡沢は素直に小川さんの忠告に従う事にした。何食わぬ顔で偶然を装う振りで会うという手もあったが、そこで変に疑われたくはない。だが自分が警察だとは向こうは知らない為、チャンスと言えばチャンスだという気もした。 世間話をしながら、連続殺人事件の話をふり、反応を見る、当然、ここで警察だとバレるようなミスをする訳には行かないが、踏み込んだ話をしなければ大丈夫ではないかと泡沢は思った。 何なら同伴出勤という形を取り、店に行くのもありだ。泡沢は心の中で、小川さんに謝罪しながら、楠木美佐江の後を追った。 ここからスナック天使まではかなりの距離がある筈だが、楠木美佐江はひたすらに歩いていた。雰囲気からしてタクシーや電車、バスなどに乗車する気配は感じられなかった。 泡沢はどのタイミングで声をかければいいかわからなかった。迷いもあった。後ろから駆け寄るというのもありだろうが、出来れば逆方向から出会うという形が望ましい。泡沢は通りかかったタクシーに向かって手を上げた。 近場で申し訳ない旨を伝え、楠木美佐江の姿が見えなくなるまでタクシーを走らせてもらった。 「近場で申し訳ないので、お釣りは結構です」 泡沢はいい、お釣りは受け取らず、タクシーから飛び降りた。そしてこちらへ真っ直ぐ向かって来ている事を願いながら泡沢は少しばかり早足で楠木美佐江がいるだろう方向へ足を進めて行った。 しばらく歩くと見覚えのある格好の楠木美佐江の姿を捉える事が出来た。泡沢ははやる気持ちを抑えながらそちらへ近づいていく。 数メートルまで来た時、泡沢が声をかけるより、早く、楠木美佐江が泡沢に向かって話しかけて来た。 「あら、泡沢さん、こんばんは」 瞬間、勃起した。そこに意識を奪われた事と、意表を突かれた事で第一声を出し損ねた。きっと今の自分は相当、素っ頓狂な表情をしているに違いない。 「ミミですよ。ミミ」 言葉を出すチャンスを与えて貰ったのにも関わらず、泡沢は又もや、言葉を発し損ねた。 「昨夜会ったばかりじゃないですか?なのにもうお忘れになられました?私って印象に残らない女なのね」 そんな事はつゆとも思ってない風に楠木美佐江はニコリと微笑んだ。 「まぁ、泡沢さんはかなり酔ってらっしゃったから覚えてないのも仕方ありませんね」 楠木美佐江は言いながら、他の歩行者の邪魔にならないよう、歩道の端に移動する。泡沢も慌ててそれに習った。 身体を動かした事が良かったのか、泡沢の口からようやく言葉がついて出た。 「あぁ、すいません、スナック天使の、ミミさんですよね」 「ですね」 楠木美佐江は苦笑いのように微笑んだ。 「お店でお会いした時と、雰囲気も違うので直ぐ気づかずすいません」 泡沢はいい頭を下げた。 「泡沢さん」 「はい」 「まだ2回しかお会いした事ないのに、こんな言い方は失礼だと思いますが…」 「何でしょう?」 「泡沢さんって、モテないでしょう?」 楠木美佐江は手で口を隠しながら笑った。 口を隠すという事は警戒心の現れでもある。 客と店の従業員との関係だから、警戒心はあって当たり前だ。 だが泡沢には楠木美佐江が口を隠しているのは別な理由からだと感じた。 それはモテないという事を馬鹿にしているという意味ではなく、泡沢自身の人間性全てを見下しているような、そんな風に感じられた。手で隠された楠木美佐江の口は今、口角は裂けんばかりに吊り上がっている事だろう。 「ええ。正直、全くモテません」 「理由は何だと思います?」 「さぁ。特別コミュ障てわけでもないつもりですし……まぁ流行り物には疎いのは確かにありますが……ファッションセンスでしょうか」 「センスが悪いかどうかは普段着を知らないので私にはわからないけれど…」 「けれど?」 「私個人的な感想ですけど」 「はい」 「泡沢さんって女の匂いがするんですよ」 「女の匂い?」 「はい。彼女がいるだろうとか、奥さんがいるだろうとか、そんな風な感じじゃなくて、上手くは言えないけど、とにかく女の匂いがするんです。直感ってやつですかね。だから異性が近寄ってこないのかもしれませんね」 女の匂いといえば確かにある。チッチだ。彼女とは事件が起きる度にシコってもらい、抱き合った。簡単に言えばセフレのようなものかも知れない。楠木美佐江はそれを感じ取ったというのだろうか。 「まぁ、それでも女性の中には、他人の持ち物が欲しくなるタイプの人間もいますからね。肉食系ってやつですね。そういう女性と出会えたら、泡沢さんもモテるかも知れませんね。あ、けれど、そういう女性は他の女性の存在がない事に気づいたら直ぐに飽きられ捨てられるのでご用心下さい」 楠木美佐江は泡沢の目を見てそう言った。 「そうですか。わかりました」 泡沢はペニスの先からがまん汁が垂れ流しになっている事が気になったが、素を装いながらそう返した。 「ちなみに私も他人の女性の男を奪いたくなるタイプです」 楠木美佐江はいい妖艶な笑みを浮かべた。 「では、私はこれから仕事なので、これで失礼します。又、お店に来てくださいね」 楠木美佐江は名刺を取り出し泡沢に手渡した。受け取った際、楠木美佐江は泡沢の手に指を添え、なぞるようにしてその手を引いた。 胸が高鳴る。勃起したペニスは収縮するどころか、楠木美佐江に触れて欲しいと感じているようだった。 泡沢は、 「はい。必ず」 といい、手を振る楠木美佐江の後ろ姿を見送った。 泡沢は手にした名刺を持ったまま、しばらくの間その場に立ち尽くした。
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