第三章 ②⑨

1/1
前へ
/192ページ
次へ

第三章 ②⑨

杉並署にいた数年前に、自分が取り逃した桜井真緒子に殺されたであろう、木下さんの葬儀では何故か涙は出なかった。 悲しくはあったのに、どうしても涙は出なかった。殺された怒りすらもその時の泡沢の心には存在していなかった。 今思えばただ起きた現実から必死に逃げようとしていたのかも知れない。 泡沢が目を覚ますと、自分が木下さんの夢を見ていた事に気がついた。 ぼんやりとする頭で、辺りを見渡す。 闇の中に僅かな光が感じられた。それは泡沢から少し離れた場所に置かれたランタンの明かりだった。 息を吸うと異常に埃っぽかった。少し肌寒いのは、どこからか風が入っているせいだ。 身体を動かそうとしたが、駄目だった。どうやら泡沢は猿ぐつわをされ、両手を後ろ手にされ鉄骨に縛り付けられているようだった。足首もロープに縛られている。 その時、下半身だけ裸にされている事に気がついた。 一瞬、自分の身に何が起こったのか理解出来なかった。 頭を動かすと偏頭痛のような痛みが走った。何者かに殴られたのかも知れないと泡沢は思った。記憶を辿るように、昨夜の事を思い返してみる。スナック天使に行き、そこでチッチに会って、そしてビールを飲みながら、チッチを抱きたいと考えていて…… そこから先は思い出せなかった。確か、さほどビールも飲んでいないのにめちゃくちゃ眠くなった事は何とか思い出せた。 その記憶を思い出すと泡沢は、まさか?と思った。 ミミに拉致されたと考えたのだ。もしそうならばミミに会う度に勃起した理由も頷ける。 だが、とも泡沢は思った。チッチが酔い潰れた自分をほったらかしにするだろうか?それは考え難い。 なら何故、自分はこのような埃っぽくて寒い、古びた倉庫のような場所に拉致されているのだろう?ミミがこのまま寝かしてあげようとでもチッチに話し、2人は店が閉まると何処かへ出かけ、ミミがチッチと別れた後で、再び店に戻り泡沢を拉致したのだろうか? 自分自身、この考えが1番しっくり来た。だが、まかりなりにもチッチも刑事だ。泡沢がいなくなった事を知れば、幾ら友達とはいえ、ミミに疑いをかける事に遠慮はしないだろう。 ミミという女は、そこまで頭が悪いのか、それともチッチに疑われない自信でもあっての行動だろうか?どちらにせよ、今、自分は大変危険な状況にあるのは間違いなかった。 やはりあの女は何かしらの犯罪に加担、いや、犯罪を犯している筈だ。自分のこの仮定が間違いだとは考えられなかった。 何故なら店を出た記憶も、チッチに起こされた記憶もないのだから。となれば自ずと答えは見えて来る。脳と下半身が犯人はミミだと告げていた。 しかし、どうやってここから逃げ出せば良いだろうか。手首は細いプラスチック製のようなもので縛られている。これは間違いなくインシュロックだ。 いわゆる結束バンドというものだ。 これを切断、もしくは引き千切るのは無理がある。 カッターナイフやハサミなどが無ければ、切ることは不可能だ。人間の力で引き裂く事なんて出来やしない。 ならばやはり足首に巻かれたロープを解くしかない。泡沢は片足ずつ上下左右に動かした。僅かな弛みでも出来れば、引き抜く事が出来る、そう強く信じ、我慢強く足を動かし続けた。 ロープが縛られている箇所がヒリヒリと痛み出す。靴下越しではあるが、足首の皮膚が擦り切れだしたのがわかった。 奥歯を噛み締め、痛みを堪えながら足を動かした。 休みなく数十分動かした時、泡沢はロープが緩んだ感触を得た。 膝を折り曲げ急いで片方だけ靴を脱いだ。そして力任せにその足を引っ張った。くるぶし同士がぶつかり合い、骨が軋む音が聞こえる。それでも泡沢は歯を食いしばり片足を引き抜いた。 ロープから逃れると全身から汗が噴き上がった。片方に絡まっているロープに抜けた足を押し付けロープを取った。両足が自由になった泡沢は脱いだ靴を足で挟み手前へ運んだ。靴を履くと背中を鉄骨に押し付けゆっくりと立ち上がった。 そして出来る限り両手を押し広げ鉄骨の角の部分に結束バンドを押し付けた。上下に擦り上げる。切れろ!と念じながら泡沢は全力で腕を動かし続けた。 力任せに動かし続けたせいか、泡沢はすぐにバテてしまった。猿ぐつわをされている為、鼻息も荒く息苦しかった。 呼吸が整うまでしばらく休んでいると、何処からか軋むドアが開くような音が聞こえた。コツン、コツンという足音が倉庫内に響き渡る。 割れた窓を見るが、今が何時頃なのか、泡沢には見当もつかなかった。だが明かりに目が慣れ、周囲を確認した時、高い位置にある割れた窓から見えるのは闇のみだった。それから判断するに今は深夜だという事がわかった。 足音が近づくにつれ、それが1つではない事に気がついた。どうやら自分を拉致した人間は2人組のようだった。ここまで来てようやく刑事としての性分が騒ぎ始めたのか、泡沢のチンポがみるみる内に勃起し始めた。 そして泡沢はその2人組が現れるのを待った。自分は殺されるかも知れない。だが、その犯人の顔だけは、輪廻転生というものがあるのであれば、未来永劫忘れない為に、この命に2人の顔を刻み込もうと思った。 「全く、貴方は幾つになってもチョロいわね」 ミミが泡沢の前に仁王立ちする。その背後にもう1人いるが、ミミのせいで顔を確認する事が出来なかった。 泡沢は何か言い返したが猿ぐつわのせいで、くぐもった声しか出なかった。 「幾らなんでも、珠世?遊びすぎよ」 「だって、先輩可愛いんだもん」 ミミの背後から声がした。その声を泡沢は絶対に忘れる事はない。そしてミミに呼ばれた名前が珠世。つまり未だ隠れているもう1人の人間はチッチという事だ。 泡沢はその事実に愕然とした。どうしてだ? どうしてチッチはこのミミと共謀して自分を拉致したのだ?仮にもミミは犯罪者だ。それは間違いない。チンポがそう告げているからだ。 だがその疑問を問いかける事は出来なかった。 泡沢は足掻く振りをしながらも鉄骨の角で擦り続けた。 「珠世?彼氏さん、何か言いたいみたいよ?」 「彼氏じゃないよ」 「なら何よ?元彼?」 「違うよ。簡単に言えばセフレになるのかな?あ、でも違うか。犯人を捕まえる手がかりを見つける為に、エッチやシコってあげてたわけだから、やっぱ仕事上の先輩かなぁ」 「それだけ?」 「そうだよ?どうして?」 「私は、あの、何て言ったかな?珠世がこの人の同僚の刑事を殺した後で言ったわよね?猿みたいな泡沢を殺せって」 「あぁ、木下ね。木下はいらないから速攻で殺したけど、先輩はさー。なんて言うか母性をくすぐられちゃって、中々実行出来なかったの。この気持ちお姉さんにもわかるわよね?」 「え?」 「だって昔、吉祥寺で先輩に捕まりそうになった時、殺さなかったって言ってたじゃない?」 吉祥寺?と聞いて泡沢はハッキリと思い出す。 自分が吉祥寺で取り逃した犯人は桜井真緒子しかいない。昔の顔とは全然違っているが、チッチが言う事が本当だとすれば、間違いない。この女は、ミミは未だ逃亡中の桜井真緒子だ。 まさか潜伏期間中に、整形しているとは考えもしなかった。何故なら桜井真緒子は美人だったからだ。今は、昔の面影もなく、美人とは言い難い。いや、別な角度の美人だ。所謂、整形顔というやつだ。日本人的な美人から韓国系整形美人に変わったという感じだ。取り逃した時の方が何倍も美人だった。 だがそんな桜井真緒子の整形の事実より、泡沢はチッチが桜井真緒子の妹であり、木下さんを殺害した犯人だと耳にした事が何よりもショックだった。 刑事として杉並署に配属されてから、自分が県警に移動になるまでの数年間、ずっと相棒として事件と向き合って来た。勿論、個人的な欲望でチッチを抱いた事も、抱かれた事もある。だから相棒というより1人の女性としてチッチを愛していた。 だがその気持ちは、刑事というある種、独特な立場から口にする事は出来なかった。そんな女性がまさか殺人犯の妹で自らも殺人を犯していたとはショックを通り越していた。 泡沢は茫然自失な虚な目でチッチを眺めた。今、思うとチッチで勃起していたのは単に欲情したからではなく、犯罪者として、下半身が反応していたのかも知れない。 「かなりショッキングだったみたいね」 ミミは、クスクス笑いながら泡沢の方を指差した。 「おまけに、まだ勃ってるし」 「先輩はさぁ。性欲半端ないのよ」 チッチがいい、泡沢の方へと向かって来る。 目の前で仁王立ちすると、無言で泡沢の股間をハイヒールで踏みつけた。 泡沢は痛みでもがくがチッチは踏む事をやめようとはしなかった。 「どうするの?」 「どうするの?って何が?」 「そいつよ」 とミミが言った。 「色々、バラしちゃったから殺すしかないよね」 「それで良いの?」 「良いも何もないじゃん?お姉ちゃんが先輩の事を私に教えてくれたんでしょ?」 「まぁ、そうだけど」 「それってウザかったからでしょ?」 「まぁね」 「お店の常連となると、必ず先輩はお姉ちゃんの事に気づくし。いえ、もう何かしら勘づいていたんじゃないかな?だから店に来たんだと思うよ?」 「そうなるとやる事は2つしかないわね」 「そうだね。又、別な場所へ逃亡するか、先輩を殺すか」 「えぇ」 「でも、逃亡するなら、わざわざ私をここへ連れて来たりはしなくない?先輩を油断させるには私がいた方が楽だもん」 「そこまでわかってるなら、早いとこ片付けちゃってよ」 「ていうか、そんなに邪魔ならとっとと殺しちゃえば良かったじゃない?」 「そうしたかったけど、あんたも刑事だから知ってるだろうけど、ここ最近、この辺りで連続殺人が起きてるじゃない?」 「うん」 「そのせいで、昼夜問わず刑事がウロチョロしてるのよ」 「死体の処理に困るから?ってわけ?」 「そうね。おまけにうちの店、県警の小川って刑事が常連だし、おまけにママも殺されたからさ。そこでそこの刑事まで殺してしまうのは今は不味いかなぁって思ってたわけ」 「そんな事いう癖に、今は殺すつもりでしょ?」 「そうね。けど、殺すのは珠世、あんただから」 「私が?」 「嫌なの?」 「んー嫌じゃないけどさぁ」 チッチはいい、泡沢の股間からようやく足を退けた。 「あんたは刑事だからさ、例え、死体処理中に警察に見つかったとしても、幾らでも言い訳出来るじゃない?仮にも相棒だったんだからね」 「そうだけどさぁ」 チッチはいい、泡沢の前でしゃがみ込んだ。 タイトなスカートを捲り上げる。下着を脱いだ。今では地べたに座り込んでいる泡沢のペニスを掴みそこへゆっくりとまたがった。 上下左右に腰を動かしながら、チッチは右手で泡沢の頭を撫でる。余った左手を背後に伸ばしたのは泡沢には見えなかった。 「先輩、大好きよ」 チッチが泡沢につけられていた猿ぐつわを外しそう言った。 瞬間、喉元がチクリと痛んだ。その痛みは次第に重い鈍痛なものに変わった。息がしにくい。生暖かい物が自分の身体から流れ出るのが泡沢にはわかった。力強く何かを押し付けられた時、泡沢はチッチの中で射精した。 チッチの顔がボヤけていく。天井が揺れ、喉から笛の音に似た空気が流れ出す。 あぁ。これが殺されるという事なのか。チッチはさらに激しく腰を動かした。泡沢は死とは特定の人間にとってはこの世で1番の快楽なのかも知れないと思った。
/192ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加