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第四章 ③⑨
老婆が店を出るのを確認した後、小川さんはゆっくりと席を立った。テーブルに置かれた伝票を泡沢に押し付けると、先に店を出た。
店に入ってから3時間以上過ぎていたので、アイスコーヒー2杯という訳にもいかず、その他にパンケーキやケーキセットなどを注文した為に、そこそこの値段を泡沢が支払う事となった。
泡沢は小川に続いて店を出ると小川の姿を探した。左側へ歩いている小川の先、数十メートル先にはゆっくりと歩道橋を上る老婆の姿があった。
泡沢は少し早歩きでそちらへ向かった。クーラーの効きすぎた店内から出たばかりだというのに、すぐに汗ばんで来る。スーツのジャケットを脱ぎ腕に抱くとワイシャツのネクタイを緩めた。
小川さんに追いついた泡沢は、小川さんに先に行けと指示を貰った。
一旦、追い越して先で見張れという意味だ。2人で尾行するといざ逃げられた時に、2人とも見失う事を恐れての事だろうが、相手は老婆だ。そんな事は起きないと泡沢は思ったが、ここは素直に小川の指示に従った。
泡沢は歩道橋を上り、あっという間に老婆を追い抜き、反対側へと降りていった。老婆が降りた先の歩道の前後のどちらへ向かうか検討もつかなかったが、例え外れたとしても、そこは小川さんが尾行している。
泡沢は歩道橋を降りた前方へ向かう事にした。素早く横道や路地に入るような道がない事を確認しながら、先にあるパチンコ屋に入り、入口付近で老婆が通るのを待った。
そんな泡沢の姿を確認した小川は頭の中で老婆が住んでいる筈の歩道橋下と鰐男を見たと証言したあの路地裏の地図を思い浮かべていた。
確かに、今の歩き方であれば歩道橋下から例の路地裏まで残飯を求めて行けなくはない。目と鼻の先とまでは言わないが、普通の人間なら近場だと感じる距離だ。
おまけに老婆はホームレスの姿の時より足腰はしっかりして見える。やはり演技に違いない、と小川は思った。
だがあの住まいにしていた場所から、ここまではかなりの距離がある。泡沢の言うように施設か何かがこの辺りにあるのであれば、歩く事に疑問は抱かない。
だが、小川の目には今、ハッキリと力強く歩を進めている老婆を捉えていた。
もし未だ元いた歩道橋下辺りに住まいを設けているとすれば、やはり高齢のババアの歩きでは相当キツい筈だ。
喫茶店に入れるくらいなのだから、タクシーやバスを使ってもおかしくない。だがそうしない時点で、小川はこの老婆からきな臭さを感じ取っていた。
おまけにこの暑さだ。早朝からせっせと歩く物好きなウォーキング野朗か健康な若者でない限り、昼間の1番暑い時間帯に、外を出歩きたいと思う奴がいるだろうか?
確かに歳をとると体感温度を感じ取りにくくなり、その暑さをあまり感じる事が出来ず、クーラーもつけず熱中症になり死んでしまう高齢者も多数いる。
だから自分が感じているこの暑さも、ババアにはさほどの暑さだと感じ取れていないのかも知れない。
小川は一歩、一歩、ゆっくりと歩道橋を降りる老婆を離れた位置から眺めながら、とっとと下りろクソババァと何度も何度も口の中で罵った。
パチンコ店内で待機していた泡沢の目の前を老婆が通りすぎると、泡沢はホッと胸を撫で下ろした。その間に小川さんが現れ、老婆を追う。
こちらにいちべつもくれないという事はどうやら小川さんは泡沢がパチンコ屋に入った事に気づいていないようだ。泡沢は慌ててパチンコ屋から出た。一定の距離を保ち、小川の後を進む。
泡沢が現れたのを感じたのか一瞬だけ小川が後ろを振り返った。目が合うと泡沢は軽く頷き返した。2人の刑事の先をせっせと歩く老婆は、未だ自分が尾行されていると気づいてないようだ。
一体、どこまで行くのだろう?泡沢がそう思った矢先にそれが起きた。老婆がいきなり走り過ぎ去ろうするタクシーを止めたのだ。その年齢では考えられないような素早い動きで、タクシーに乗り込むとタクシーはすぐに走り去った。小川と泡沢も慌ててタクシーを呼び止めようとするが、この暑さのせいでか、側を行き過ぎるタクシーには皆、乗客が乗り込んでいた。
泡沢は小川の下へ駆けていった。小川はガードレールを蹴り上げ悪態をついていた。
「クソっ!まんまとやられた!」
「気づかれていたんですね」
「あぁ。ひょっとしたら喫茶店内の時からバレていたかも知れねーな」
「どうします?」
「どうしますもこうもねぇ。とりあえずババアの住んでた歩道橋の下に行ってみるしかねーだろ」
泡沢は頷き、タクシーを止める為に道路に向かって手を挙げた。
老婆が住まいとしていた歩道橋の階段下は何もかもが撤去され綺麗にされていた。
行政が強制的に撤去したのか、老婆が片付け別の場所に移動したのかはわからないが、逃げられた事を踏まえると恐らく後者だろう。
その光景を目の当たりにした小川の苛立ちは、とてつもなく大きかった。
実際の所、あの老婆が鰐男の事件に絡んでいる証拠は何もないのだが、逃げられたという事実が小川と泡沢の気持ちを確信へと近づけるにの容易な事だった。
実際、老婆が2人に尾行されていると感じ逃げたのは、その真意は定かではない。それは老婆で無ければわからない事なのだ。
本当の所、単に暑さに耐えきれなくなりタクシーに飛び乗ったと言えなくもない。だが小川と泡沢の2人の刑事は経験から勘づかれ逃げられたのだと揺るぎない確信があったのだ。
一度逃げられた者を再度見つけるというのは、よほどの運と相手がヘマをしない限り中々見つける事は出来ない。それがわかっている2人だからこそ、老婆に逃げられたと感じた悔しさは言葉には言い表せない程のものだった。
もぬけの殻だった歩道橋下をみてから、署に帰宅するまで小川さんは一言も喋らなかった。
仏頂面で、すれ違う人全てに喧嘩を売りそうな態度で、周りのもの全員から余計な気を遣わせてしまうような本当、心底迷惑な態度を続けていた。
それは帰宅する時まで続いた。悔しいのは分かるが、頭に血が昇ったままでは物事を冷静に見る事は出来やしない。
本人もそれは重々承知だろうが、それが出来ない程の悔しさだったのだろう。こんな小川さんを見るのは泡沢がこの県警に転属されてから初めての事だった。
刑事の勘かどうかはわからないが、あの老婆は鰐男を逮捕する有力な人物だと、小川さんは捉えていたのだろう。
泡沢は会議が終わった後、1人部署から出て行く小川さんの背中に、
ただ
「お疲れ様でした」
と言う事しか出来なかった。
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