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第五章 ④⑧
泡沢は手に持っていたジャケットの内ポケットから現場写真を取り出し自分が縛られていた剥き出しの鉄骨の前に立った。
手袋を嵌めてそれを見つめる。郷愁に浸るよ頷き眼差しで鉄骨に触れた。
そのまま床に目を落とすとコンクリートの床には水溜りように黒く滲んだ箇所が、数カ所あった。
写真を見る限り鉄骨に近い方の滲んだ箇所がチッチのものだろう。
そこから少し離れた場所が、楠木美佐江、いや桜井真緒子のものだ。
泡沢は腰を落とし、チッチの血痕と思われる床に触れた。チッチとは数えきれない程の思い出がある。
それらは皆、良い思い出ばかりだった。悪いのはチッチが自分を騙し、そしてここで殺そうとした事の2点だけだ。
まぁその2点で良い思い出を吹き飛ばすくらいの力は持っているが、それでも泡沢は何故気づかなかったのだろう?何故、チッチは刑事としての自覚を持って、自身の行動を改める事が出来なかったのだろう?
自分が桜井真緒子との関わりがあった事は、仮にも腹違いとはいえ姉妹のチッチに話はされていた筈だ。
なのに毎日触れ合い、事件を追い、抱き合ったにも関わらず、チッチの心に何の変化も訪れなかったという事は、単に人間としての心が破綻していたとしか思えなかった。そう思わなければ、今、こうして事件を洗い直す事は出来なかっただろう。
続いて桜井真緒子、当時は楠木美佐江の刺殺死体があった場所にしゃがみ込む。
もしこの世の中に本物の霊能者という者が存在するならば、この現場をみて、何を感じ何を聞き取るのだろうか?自分には霊感などといったものは一切ないから、そのような死者の声を聞く事は出来ない。が、楠木美佐江の言葉なら何となく想像がついた。
「まだ生きているわけ?」
そう言われそうな気がした。
チッチの場合はどうだろうか?
きっと何も言わずにチンポを触り出し、ニヤけるに違いない。
泡沢は立ち上がりジャケットに現場写真をしまった。そして辺りを一周する。股間に反応はない。
今度は殺害現場と入り口までを行き来する。無反応だった。再び鉄骨と地面に触れた。
股間に反応はなかった。歯噛みしたくなるのを堪えて一通りやって来た事の範囲を広げた。円を描くように一歩一歩、ゆっくりと広がるように殺害現場を歩く。
ふと泡沢は足を止めた。楠木美佐江とチッチを殺害したのは、刺し傷から言って背後からだ。それは間違いない。泡沢は一旦、出入り口前に立ち、自分が縛られていた鉄骨を眺めた。
ここからでは積み上げられたパレット類が邪魔で自分を含めた3人の姿を見る事は出来ない。先ずあり得ないが、例えば倉庫の明かりがついていたとしてもチッチ達の姿はパレットの隙間からでも見る事は出来なかった。
それが僅かな灯りとなると尚更だ。となれば僅かな灯りを頼りに犯人は2人に近づいて行った筈だ。なら間違いなくパレットの側まで行き、2人を確認した後、襲ったに違いない。
泡沢は直ぐに荷物を載せて運ぶ為のパレットの方へと向かった。
しゃがんだか、立っていたかはわからないが、とにかく犯人はこの場所で2人を見定めた筈。泡沢はそう考え、届く範囲でパレットに触れた。
一段、一段と下がって行った時、僅かだが股間が疼いた。下から4段目、泡沢の身長だと大体、太腿の中間辺りだった。泡沢はそのパレットを眺めた。再び手に触れると、微かだペニスが動いた。泡沢はすぐさま携帯を取り出し、小川に連絡を入れた。
「お疲れ様です。今、廃倉庫にいるのですが、そこで、微かではありますが、反応がありました」
「で?」
「ひょっとしたら犯人の指紋が採取出来るかも知れません」
「たから?」
「鑑識を寄越して下さい。お願いします」
泡沢はそうとだけいうと、小川の返事も待たずに電話を切った。
その後直ぐに泡沢は内線電話を使い警備室へ連絡を取った。
「終わりましたか?」
「いや、申し訳ないですが、まだなんですよ」
「ではどうされました?」
「しばらくしたら警察の者が数名、いや、1人かも知れませんが、こちらに来る事になりました。ですので、もし来たらこの場所を教えてあげて頂けませんか?」
「あ、そうですか。わかりました。そのように伝えますね」
泡沢は警備員が言い終えるのを待ち内線電話の受話器を置いた。
1時間程度でやって来たのは思った通り、1人だけだった。泡沢とはほぼ面識がなかったその人物は、軽く会釈の後に、「現場はどこですか?」とぶっきらぼうに尋ねて来た。
ひょろひょろとした細身で背の高いそいつは、歳は泡沢と同い年くらいか、少し歳上に見える。意外と40を越えているかも知れない。
泡沢は鑑識の人間を連れ立ってパレットが積み重なっている場所へと移動した。側までくるとやはり股間が疼く。勃起するまでは至らないが、確かに反応はあった。
「木、ですかぁ。こういうのって指紋などはつきにくいものなんですがね」
こんな所まで呼びつけたと思ったらこれかよ、的な意味が言葉に含まれているように感じたかが、泡沢は、何故つきにくいのか?などは尋ねずに何食わぬ顔でお願いしますといった。
20分くらいの作業によって、1つだけ、それも指の3分の1程度の指紋が発見された。
「一応、これだけ出ましたが、ホシの物かはわかりませんよ?」
「ええ。殺された2人の女性のものかも知れません。それに使われなくなるまでここで働いていた人間の物かも知れない。ですが、この奥で行われた殺害現場から離れているこの場所で指紋が出たのは初めてじゃないですか?」
「え、ええ。まぁ確かにそうですけど」
「もしこの指紋が、被害者2人の物でないとしたら、恐らくは犯人の物で間違いないと思います。何故なら犯人は2人の被害者を背後から襲っています。となれば、身を隠しながら2人を襲うとしたらこの場所で身を隠した筈です。そうであるならばその時にパレットに触れた可能性があります」
泡沢の言葉に鑑識はパレットから顔を覗かせ殺害現場の方をみた。
「あぁ。確かにそれはありますね」
「ですよね」
鑑識は採取キットを片付けながら泡沢を見上げた。
「帰ったらすぐに調べてみます。被害者の物と違っている事を願っていて下さい」
鑑識の人はいい、ペコリと頭を下げ、1人、倉庫から出て行った。
その後で泡沢は更に倉庫内全体を歩き回ってみた。だがパレット以外に股間が疼く事はなかった。泡沢は少しばかり肩を落としたが、指紋が犯人の物だと信じて内線電話を取った。
「長々とすいませんでした。終わりましたので閉めて頂いて結構です」
「わかりました。直ぐに向かいます。こちらで最終点検しますので、明かりはつけたままで結構ですから」
警備員はいい泡沢はありがとうと伝えて受話器を置いた。
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