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第五章 ④⑨
署に戻ると小川さんが血色の良い顔で出迎えてくれた。
「チンポさんのご帰還だぜ」
声に張りがありトーンの高さから泡沢は何か良い事でもあったのか?と思った。自分のデスクに腰掛けようとした時、
「お前が見つけた指紋、2人の害者のものじゃなかったぞ」
「そ、そうですか!」
「今、データベースで犯罪歴のある者達の指紋と称号してる最中だ。まるまる採取出来たわけじゃねーから少し時間がかかるみてぇだが、何とか前科ものの誰かと一致してくれりゃあ、事件も一気に解決を迎えるんだがな」
泡沢の願いと小川さんの願い、そして泡沢に指紋を発見されムカついてはいるが、犯人に繋がれと思っている他の班の捜査官の思いが、数時間後には全て粉々に打ち砕かれてしまった。
指紋が一致する人間が1人も出なかったのだ。
これには参ったなと泡沢は思った。小川さんはクソッタレ!とぼやき、部署から出て行った。
要するに一度も犯罪歴のない者が連続殺人事件を犯しているという事になる。事件自体、迷宮入りか?と思われる状態に追い込まれているというのに、犯罪歴のない、いや、警察に捕まった事がない者が相手となると、とてつもなく厄介だ。
この県の全ての人間の指紋を採取するなんて不可能な話だし、町おこしではないが、もし仮に駅前や商店街などに住民の手形モニュメントを設置するとうたい、住民を集め手形を押してもらうよいに仕向けても、全く証拠を残さない犯人がその場に来る事なんて万に一つあり得はしないだろう。
どん詰まりだと泡沢は思った。唯一の手掛かりだと思ったものが空振りに終わる虚しさは、これほど気持ちを地の底まで突き落とすものはない。落胆もいいとこだった。
まかりなりにも小川さんは、今日の自分に期待していた部分もあった筈だ。それが徒労に終わってしまったのだ。まだ時間は早かったが泡沢は帰宅する事にした。
流石に今日はこれ以上やってられない。気持ちが完全に打ち砕かれた。
寮に戻り、ビールでも飲みくだらない映画でも見てふて寝でもしよう。そう思い部署を出た。
残るチャンスはスナック天使のママのマンションだろうが、そこへ向かう気になれなかった。肩を落とした泡沢は署を出てゆっくりと歩いた。夕方の陽射しに目を伏せ、泡沢は小さく「くそっ!」と毒づいた。
たいして強くない体質な癖に、泡沢は寮に帰ると浴びるようにビールを飲んだ。
こちらに転属して来てからというもの全くついていない。事件の1つも解決へ導けていたらまだ気分も良かっただろうが、その事件の解決の糸口さえ掴めないと来ている。
倉庫内の指紋が最後のチャンスだと思っていたのにそれすらも容疑者には繋がらなかった。
泡沢は1人愚痴をこぼしながら目の前にある缶ビールをひたすら開けては口につけた。
昨日の夜はあれほど自分を奮い立たせる事が出来たのに、今日は一転してドン底な気分だった。まさに天国と地獄を味わったというわけだ。泡沢はそのまま横になり、天井を見つめた。
杉並署に戻りたいなぁ。そんな言葉が口をついて出る。うまくいかない事ばかりが続いたし、死にかけもした。水に合わないとはよくいったものだが、自分はこの町が心底水が合わないらしい。
泡沢はアルコールで激しく打つ動機を全身に感じながら、生きているのも中々キツいものだなと思いながらゆっくりと瞼を閉じた。
朝方に目が覚めると、外は激しく雨が降っていた。起きあがろうとした時、頭痛が襲いかかって来た。
やってしまった、と泡沢は思った。頭の中で重低音のドラムが鳴り響く。どうやら二日酔いのようだ。
ちょっと動くだけで頭の中を鈍器で殴られたような痛みが走る。ふらふらと立ち上がりトイレへ向かい用を足してから頭痛薬を飲んだ。
慣れていない事はやるもんじゃない。後悔先に立たずだな。頭痛薬を飲んで30分ほど、横になった。幾度かまどろんだが、そのお陰か頭痛も少しばかり治まった感じだった。
暑いシャワーを浴びて顔を洗い歯を磨いた。風呂上がりに水を沢山飲む。空腹感は感じなかった。まだ早すぎる時間だったが、泡沢は着替えを済ませた。外は中々の豪雨だった。新たな台風でも近づいて来ているのだろうか。
そういえば最近、もっぱらTVとは縁遠くなった。とは言えスマホすらまともに見ていない。
仮にも刑事なのだからニュースくらい見ろ、そう愚痴りながら泡沢は傘を持って寮を出た。
朝、早すぎるせいで部署には誰一人いなかった。捜査の最初の頃は泊まり込みの班もいたが、今となってはそれすら懐かしく思える。
泡沢は自分のデスクに向かって歩を進めた。鞄をデスクの上に置き、座る。
積み上げられた報告書が目に入り気持ちが萎えた。もう何から手をつけて良いかわからなかった。そう感じているのは自分1人だけじゃない事くらい頭では理解していた。だがわかっていても、突破口が見つからない今、選択肢は2つしかない。諦めて捜査をする振りをしてごまかすか、例え1人になっても諦めず、最初から地道に捜査を始めるかだ。その時、泡沢はある事を考えついた。
都内でたまに見かける行方不明者の家族が街中でビラを配っているあれだ。
既に鰐男の情報はメディアに露出している。
ならば鰐男の似顔絵を作成し、情報提供を求めるというのはどうだろう?
そこに起きた事件の概要を記入しておけば、誰かしらから、情報を得られるかも知れない。泡沢は直ぐに動き出した。
コピー機からA4の用紙を数枚抜き取るとそれを持ち、再びデスクに着いた。
絵心は全くないが、とにかく鰐の顔を描いてそこに身体を付け足していく。自分でいうのもなんだが、幼稚園児なみの画力だった。
とりあえず集中して数枚描き、これを町中で配布する事を捜査会議で提案してみよう。
交番などには指名手配犯などの顔写真が貼られてはいるが、こういう形で警察が配布する事はあまりないのではないか。似顔絵を作り、聞き込みの時に見てもらうというのはあるが、自らが町に出て配布すれば警察も必死だという事も伝わる筈だ。
未だ野放しになっている凶悪な連続殺人鬼が、改めて身近にいると感じてくれる事で少なからず考えたり記憶を辿ってくれる人も出てくるのではないかと泡沢は思った。
署に来た時は打つてなしと半ば諦めかけていたが、僅かだが希望が持て始めて来た。
泡沢は頭痛の事も忘れて、鰐男、アリゲーターマンの似顔絵を夢中になって描いていった。
定例の捜査会議で泡沢が提案した似顔絵チラシの件は満場一致で嘲笑された。
笑われた事に対してはある程度、予想していたので、何とも思わなかったが、殆どの捜査官がそんなもので犯人に繋がる情報なんて得られるものかという気持ちでいる事が泡沢を苛つかせた。
現状、5件の猟奇殺人と3人の女性が殺されているのだ。その内の1人はいちおうは元現職の女性刑事だったのだ。ただ、この3人については別の犯人だと考えられていたし、そっちは所轄署の担当なので小川さん以外は眼中に入れてなかった。
泡沢もチッチ達を殺した犯人が連続猟奇殺人を犯した犯人と同一犯だとは思っていない。そういう可能性があるかも知れないという事は捨ててはいないが、恐らくは違うだろうと考えている。そんな状況下に陥っているにも関わらず、新たな捜査をする事に鼻で笑うような刑事ばかりに泡沢は辟易した。
「行き詰まっているのは、ここにいる全員がわかっている。だからといってビラを配る程度でどんな有力な情報が得られるというのか?もし誰かが殺人現場でホシらしき人物を見たのであれば、既に情報提供をしているだろ?だがそれがないのが現状だ。つまり、今更そんな事をしたって何の役にも立たないという事だ。わかったか」
管理官が強い口調で泡沢に向かっていった。
「お言葉ですが、管理官。これをやる事でメリットもあります」
「メリット?いってみろ」
「警察も犯人逮捕に全力を尽くしているというイメージの挽回。そして何より未だ殺人鬼が野放しの状況下にある事を、今ひとつ住民に注意喚起が出来ます。注意喚起が出来れば人は改めて自分の身の事を考え、記憶を辿ろうとするのではないでしょうか?」
泡沢の言葉に管理官は鼻で笑った。
「まぁ、いい。やりたければやればいい。ただしお前1人でだ」
「わかりました」
泡沢は頭を下げて席についた。
その後、過去に行った聞き込みのローラー作戦などの話が出たが、泡沢の頭には何一つ入って来なかった。
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