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第二章 ⑤
「小川さん、おはようございます」
「おう」
私は自分のデスクに鞄を置いて椅子に座った。
「今日は昨日の夜とは別人のように、なんだかスッキリした顔だな」
「そうですか?」
「あぁ。昨日はみてるこっちまで胸が苦しくなるような凹みようだったからな」
自分でも転属2日目にしてここまで落ち込むとは思っていなかった。だから意識していなくても表情にも表れたのだろう。
「シコって来たのか?」
「はい。自分の出来る最善の事は、先ずシコる事ですから」
「そうか そうだよな」
小川さんはニヤニヤしながらそう言った。
定例の捜査会議の後、私は昨日から考えていた事を小川さんに話した。
「あのババァのホームレスに?」
「ええ。先ず目撃者はそのホームレスしかいないというのと、ひょっとしたらホシに繋がる何かを隠し持っているのではないか?と思うわけです」
「そんなもん、ねーだろ」
小川さんはそっけなくそう言った。
「ないかも知れませんが、あるかも知れません」
「まぁ、確かにないと言い切れないか。なんせ相手はホームレスだからな」
「なので話を聞きたいのです。必要とあらば弁当やお酒をお土産で買って行こうと思ってます」
「物で釣るわけか。オケラで終わるかも知れねーぞ?」
「構いません」
なら、と小川さんは言った。
「土産は言い出しっぺのお前が買うんだぞ」
「勿論。そのつもりです」
私達小川班は、全員が出払った後、目撃者である老婆のホームレスに会いに行った。
その老婆が見た殺人は振り込め詐欺の男の方だった。
「吉と出るか凶と出るか。これはお前の県警内での未来にかかわる事になるかもな」
地下駐車場へ降りながら小川さんが言った。
「1週間もしねぇうちに、他所へ飛ばされたら笑えるんだがな」
車の鍵を開けると小川さんは助手席のドアを開き乗り込んだ。
「脅さないで下さいよ」
私はそのように言い返したが、正直、出世には大して興味がなかった。全くないと言えば嘘になるが、このまま定年退職するまでずっと現場の刑事のままでいたいとは、流石に思いはしなかった。
60過ぎて朝からシコる自分の姿は、あまり想像したくない。実際、その年で毎日シコるのは無理があるだろう。
そういう意味を踏まえて、将来的には現場に出ない立場にはいたいと考えていた。だがそれまでに私は何としてでも桜井真緒子を捕まえなければならない。使命と言ってもおかしくなかった。
あれから8年が経った今、桜井真緒子は40歳になっている筈だ。8年もの間、どこにいてどうやって逃げ切っているのか。容姿を変える為の整形は先ず間違いないと私は見ていた。
そうなれば顔だけでは見つけるのはほぼ不可能だ。整形するにあたって、整形大国の韓国に渡ったとは考え難かった。指名手配犯として全国に顔がバレているからだ。
空港内にも張り出してある。となれば潜伏先は先ず日本国内と考えていい。海外へ船で渡航という線もあるにはあったが、2度も逃げられた私から言わせて貰えば、桜井真緒子は、そのような事をしてまで逃げる女ではない。
2回目に逃げられた時も、桜井真緒子は杉並に潜伏していたのだ。私が勤務していた杉並警察署の目と鼻の距離にだ。
つまり、桜井真緒子は、警察をおちょくる事が、好きな所があると私は睨んでいた。そんな桜井真緒子の読み通り、警察署員の誰もが桜井真緒子が同じ区内にいるなんて考えても今なかった。
だからこそずっと見つけられなかったのだ。だが桜井真緒子は定期的に殺人を犯さずにはいられないタチだ。
ラーメン屋店主を殺害しなければ、2度目の桜井真緒子との遭遇は恐らくなかっただろう。
だが彼女は殺人を犯した。言葉は悪いが殺人を犯してくれたお陰で、桜井真緒子を追い詰める事が出来たのだ。
まぁまたもや逃げられはしたが。だから私はまだ桜井真緒子は必ず都内近郊に潜伏していると睨んでいた。
人が密集している土地の方が目撃される危険は孕むが、反対に桜井真緒子が望む殺人を犯しやすい。
おまけに都心の方が交通手段を含め逃亡しやすい。地方へ逃亡する犯人などもいるが、それには理由があると私は思っていた。
密集度が低い土地では情報を発する力も汲み取る力も都心に比べたら天と地の差くらいある。それは現代の高齢社会に起因しているとも言えた。それに加え、このような田舎の土地に凶悪犯が潜んでいるわけがない、という無意識下での思い込みが犯人の逃亡を優位にさせているのだ。だが桜井真緒子が地方の田舎で燻っているとは私にはどうしても思えなかった。
第一の殺人の時も殺した相手は不動産の人間だった。俗に言うそいつはプライベートではパリピを気取っているような人間で桜井真緒子は仲間を従え強行に及んだ。
ラーメン屋店主の殺害は、一応、山の手と呼ばれる杉並区内だった。杉並区に長く住んでいた私から言わせて貰えば、杉並区の人間は山の手意識が高いのか、プライドが異常に高い人間が多い。ラーメン屋店主も、その点で言えば当てはまった。
となればつまり桜井真緒子のターゲットになった人間は自然、プライドの高い人間となるような気がした。そのような人間は都心に居なければ出会わない。勿論、地方都市にもプライドが異常に高い人間はいるだろう。だが、比率が違う。ターゲットの数が違いすぎるのだ。
だから私は桜井真緒子は未だに都内近郊に潜伏していると思っていた。
私は車に乗り込み、県警を後にした。
現場までは約30分程度だ。私はこの2件のバラバラ事件の背後に、ひょっとしたら桜井真緒子が絡んでいるかも知れないと密かに思い始めていた。
こんな話は小川さんに出来る筈もなく、2回もホシに逃げられた身にとっては、そこまで執着したくなる気持ちもわかると、言われるのがオチだ。
だから私は黙って運転に集中する事にした。
小川さんは助手席のシートを倒し両足をダッシュボードの上に投げ出し踏ん反り返っていた。
今の時代、どこで誰かに撮られているかもわからないのに、とても刑事とは思えないその格好は頂けないが、まぁ、これも小川さんのスタイルなのだろうと出かけた言葉を飲み込んだ。
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