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第五章 ⑤③
翌日の早朝、嫌がるマリヤを無理矢理に起こして、パジャマ姿のまま車まで抱きかかえて行った。
笹野ゆうこの自宅マンションは都内に向かう電車の駅の近くにあり、圭介の家から混んでいても車で20分程度でいける距離だった。
マンション前の道路を挟んだ反対側に車を停める。圭介は車内から見える駅ビルを眺めた。
その中には最近は行っていないが映画館の入っているビルもある。そちら側、つまり駅の反対側には、立地は良い筈なのに何故か寂れた商店街があり、その商店街を進んでいくとパチンコ店やらカラオケ屋があるが、それは商店街の入り口だけに限った事だった。
それから先に進めば進むほど、シャッター街が増えていく。今はどうなっているかわからないが、当時の圭介が初めて殺人を犯した地下の小さな映画館もその寂れた商店街の中ほどにあった。
圭介は当時の事を思い返しながら、良くもまぁあれだけの事をして捕まらなかったものだと思った。
運が良いのか警察が無能なのかはわからないが、だがあの事件を起こしたおかげで今、自分は漂白者として仕事が出来ている。誰に感謝するわけでもないがその時の怒りは今も圭介の原動力となっているのは間違いなかった。
相変わらずマリヤはまだ寝息を立てていた。その姿に自然と溜息が出る。遊びじゃないんだぞ!とそんな風に怒鳴りたくもなる。だが自分はマリヤより大人だ。感情に身を任せ行動すると良い結果に結びつかない事くらい経験で身に染みていた。それが出来るのは10代までの話だ。圭介は整いすぎるマリヤの寝顔を見ながら、湧きあがった苛立ちをゆっくりと鎮めて行った。
笹野ゆうこがマンションから出て来たのは7時少し前だった。随分と久しぶりに笹野ゆうこの顔を見るが、調べていた頃よりも若返って見えた。
その当時、笹野ゆうこは60代くらいの男性と腕を組み、駅前を歩いていた。圭介はその姿を見て美人局と思い後をつけたのだが、後に、不倫だとわかると、少し拍子抜けした。
だが、ある日の夜、その男性が笹野ゆうこに詰め寄り「家族になんて事をしてくれたんだ!」と怒鳴っているのを見て、改めて笹野ゆうこという女の事を調べたくなったのだ。
だだ当時は、笹野ゆうこなんかより比べられない程の悪人がいた為、後回しにするしかなかった。なので圭介はマリヤが漂白者になりたいと言い出すまで、笹野ゆうこの存在をすっかり忘れてしまっていた。
その笹野ゆうこは一見、地味な服装をしているが、メイクは的外れな感じを受けるほど、派手目だった。その派手さが笹野ゆうこの本質の表れだと圭介は感じていた。
今現在、そんな雰囲気を持つ笹野ゆうこに惑わされている男が幾人いるか、圭介には想像もつかなかった。
圭介は車を発車させ近くのパーキングに停めた。後をつける為車外に出る。マリヤはパジャマ姿という事もあり、起きるとも限らないのでクーラーをつけっぱなしにして圭介は笹野ゆうこの後を追った。
笹野ゆうこは錦糸町にある健康補助食品を販売する会社に勤めていた。それなりの美貌の持ち主という事もあり、受付を担当しているようだった。勤務時間は朝、9時から17時半まで。
それまでは動きはないと思った圭介は仕事終わりの笹野ゆうこを尾行する為に、一旦、帰宅する事にした。
パーキングに停めていた車に戻るとパジャマ姿のマリヤが見た事もないような膨れっ面をして圭介を待っていた。圭介はパーキング代を支払って無言で車に乗り込んだ。車を発車させ自宅へ向かう道中、止まらないマリヤの文句をずっと聞き流した。
自宅に戻りリビングに入りようやくマリヤに話しかけた。事の説明をすると、マリヤは自分が悪かった事に気付いたらしく、珍しく素直に謝罪した。
「夜は一緒に行くからね」
「はいはい」
言葉の中に、どうせ来ないだろう?的な含みを入れた返事にマリヤは気分を害したようだったが、そのように言われるのは自分に落ち度がある事がわかっている為か、何も言い返しては来なかった。
午後2時を過ぎた頃、圭介は支度を済ませた。
マリヤも、告別式に参加するのかと思ってしまう程の、全身、黒尽くめの服を着て、玄関まで車椅子を運んだ。
圭介に抱っこをねだり、(これは近所の誰かに見られたとしても足が不自由と印象ずける為の行為)圭介は車まで運んだ。
助手席に座らせた後で、他折りたたんだ車椅子を後部座席に積み込む。玄関を施錠してからバックで車道まで出た。
笹野ゆうこが勤務するオフィスビルまではまだ早すぎる感はあったが、時間は余裕があった方が段取りもしやすい。だから時間に関して圭介は気にもしなかかった。
錦糸町に着くまでマリヤは初めて車に乗った子供のようにはしゃいでいた。勿論、車に乗った事が嬉しいわけではなく、自分が殺すであろう笹野ゆうこを尾行する事に喜びを感じていたのだろう。
「けど、夏の終わりだからといっても、その格好は目立ち過ぎるぞ」
「いいの。今日のテーマは富豪と結婚した若妻なんだから」
「なら黒じゃなくて良いだろ」
「富豪の旦那が死に、未亡人になった障害者の若妻は悲しみに打ちひしがれながらも、健気に告別式に向かう、そういう設定なのよ」
「あ、そ」
「だから全身ゴシック調がぴったりってわけ」
健康補助食品を販売しているオフィスビルの斜向かいに車を停めた時、まだ16時を過ぎた所だった。
圭介は一応、笹野ゆうこがいるか、ビルの前を通り受付を見つめた。姿がある事が確認出来ると再び車に戻った。スマホのタイマーをセットし、シートを倒す。
時間まで仮眠をとる事にした。実際寝るわけではないが、目を閉じているだけでも身体の疲れは多少なり緩和する。そんな圭介に睡眠バッチリのマリヤは不服を申し立てて来たが、圭介は寝かせくれと言い、さっさと目を閉じた。
目覚ましと同時に圭介はきっちり17時15分に目が覚めた。シートを起こしオフィスビルの方を見る。近くのコインパーキングまで車を移動させ、そこから2人でオフィスビル近くで笹野ゆうこが退社してくるのを待った。
18時を少し回った所で、笹野ゆうこは同僚と思われる女性2人と何やら話しながら出て来た。
3人は人の迷惑も考えず横並びになって駅の方へと歩き出した。当然と言わんばかりに中央には笹野ゆうこがいて、左右2人の会話に時に笑顔で笑ったり、ツッコミを入れたりしていた。
圭介はマリヤに向かって言った。
「真ん中にいるのが、笹野ゆうこだ」
「ふ〜ん、中々可愛いじゃん」
マリヤは僅かに目を細めそう言った。
その目は自分の方が可愛いからと見下した目なのか、それとも、可愛いからって調子に乗るなよと敵意を持った目なのか圭介には判断しかねた。
女同士の本音というのは男の圭介にわかる筈もなく、ましてやターゲットを初めて見たマリヤの気持ちなどよりわかる筈もなかった。
3人はそれぞれ駅に向かい、笹野ゆうこ以外の2人はホームに向かう階段の手前で手を振り別れた。
笹野ゆうこは錦糸町から更に都心に向かう電車のホームに向かっていく。自宅とは逆方向だ。という事は不倫相手にでも会いに行くと考えるのが妥当だろう。
圭介はマリヤを促し、笹野ゆうこの後に続いた。その時、マリヤが肩から下げていたショルダーバッグをファスナーを開けた。
「どうした?」
「ん?別に」
「そう…というかさ、マリヤ」
「何?」
「その格好だけど」
「ん?似合ってないって言いたいの?」
「違う。凄く似合ってるし、可愛いのだけど」
「だけど、何よ」
「気にかけてなかったんだけど、流石にその格好は尾行には目立ち過ぎるな」
「そうかなぁ」
尾行には印象に残らないありふれた服装がベストなのは基本的な事だが、今日の自分はどうかしていたのか、マリヤにそのような格好をさせてしまった。マヌケだ。
自分も自分だが、マリヤは本気で目立っていないと思っているフシがある。それはそれで、考えものだった。
「そうだな」
「大丈夫だと思うよ。だって今の時代、他人の事なんて誰も気にしてないから」
「気にしてないかもだけど、印象には残るだろ?コスプレした女がいるぞ?的な意味でさ」
「それはそれで良いんじゃない?」
「良くないだろ?笹野ゆうこに見られたら尾行もしづらくなる」
「いいの。それでいいの」
「どうしてだよ」
「だって、直ぐに死んじゃうんだから」
確かにそうかも知れないが、今夜殺すわけにはいかない。死体を運ぶ手段もなければ、笹野ゆうこがこれから合うであろう人間もいるのだ。
お泊まりコースならなおのこと、手を出す訳にはいかない。マリヤの服装もさる事ながら目撃者などの危険があり過ぎる。
「だとしても、今日はダメだ」
2人は沢山の行き交う人を避けながら後を追う。笹野ゆうこは新宿方面に向かうホームに並んでいる列の後方に立っていた。
やたらに腕時計を気にしていた。早く会いたい為の無意識の行為か、それとも約束の時間に間に合いそうにないから焦っているのか、わからないが、圭介とマリヤは笹野ゆうこが乗車しようとしている隣の車両の方のホームの方へと進んでいった。
「なぁ、マリヤ」
圭介が問いかけるとマリヤはショルダーバッグに手を入れながら
「何?」
と聞き返して来た。視線をマリヤの手の方へ向ける。マリヤはマイナスドライバーを握りしめ今にも取り出そうとしていた。
圭介はその手を掴んだ。
「こんな所で何するつもりだ」
「いいから黙ってて」
マリヤは圭介の腕を払い退けた。
そして圭介の手を握りついて来てと言った。
マリヤが、圭介の手を引っ張りながら通勤ラッシュの人混みの中を掻き分けていく。笹野ゆうこの側までもうすぐという時に電車が入って来た。
帰宅が目的なのかそれとも笹野ゆうこのように不倫相手に会いにいくのが目的なのか、大勢の人が2列に並んでいた。電車の扉が開くと2列に並んでいた人達が左右へ横分かれした。マリヤは圭介の手を払い退けた。笹野ゆうこの背後に擦り寄る。
降りる乗客を待たずに乗り込もうとするおばさんやサラリーマン達、それがきっかけとなり、綺麗に左右に分かれていた列がみだれ、車内へ向かって雪崩れ込んでいく。
「押さないで下さい」
危険を促す駅員のアナウンスがホームに響く。圭介は舌打ちをしながら、マリヤの側へ近寄ろうとしたその時、
「痛っ!」という声が乗り込む人混みの中から轟いた。圭介は咄嗟にマリヤが誰かに突き飛ばされたと思った。
自力で動けるようにはなっているが、体力的にはまだ完全に元通りとは思っていなかった。おまけにマリヤは身体の線が細く、力も弱かった。
「クソっ!」
圭介は降りて来た乗客を掻き分けながら、マリヤの方へと向かう。
「マリヤ!」
圭介の呼び声と同時に立っていたマリヤの姿が視界から消え去った。誰かに突き飛ばされたに違いない。
圭介は両腕で人を押し退けながら、電車へと近づいていく。項垂れ膝頭を合わせるように地面に座っていたマリヤを抱き寄せ大丈夫か?と声をかけた。
マリヤは一度だけ頷いた。そんなマリヤを圭介は抱き上げ人混みを避けるようにホームから離れベンチの方へと向かった。電車の扉がしまり、ゆっくりと新宿方面へと動き出して行く。ベンチに座らせ、マリヤの表情を確認する。
「怪我はしてないか?」
心配する圭介の言葉にマリヤは大丈夫だよといい、その視線をショルダーバッグへと移動させた。そして再び圭介を見つめた。
「どうした?」
マリヤは顎でショルダーバッグを指し示した。圭介は片手でショルダーバッグを広げ、その中を覗いた。微かに震えるマリヤの手にマイナスドライバーが握られている。圭介の視線は自然とその先に移動した。そこには色鮮やかな紅い血が油に撥ねた水のように、鋭利な工具の先端から滴り落ちていた。
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