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第五章 ⑤④
「多分、太腿辺りだと思う」
帰りの車内の中でマリヤは淡々とそう語った。
「真後ろに立っていたんだけど、笹野ゆうこが誰かに押されて距離が離れたから慌てて刺したの。手応えはあんまというかよくわかんない。だから大した怪我はして無いと思う。本当はさ。お腹狙ったんだよ。けど上手くいかなかったね」
最後の言葉を言った時、マリヤは僅かに微笑んだ。失敗しちゃったなぁ、という感じの笑みだった。
「初めてだし、想像してたようにはいかないさ」
「だよね」
「けどこれでわかったんじゃないか?」
「何が?」
「入念な準備が必要だって事がだよ」
「あ、うん。そうだね」
「それに、もし、乗車する人らがあのように我先にと押すよう真似をしなかったら、マリヤの行為は誰かしらに目撃されてたかも知れないし」
「そうかもね」
圭介の言葉にマリヤはどことなく心ここにあらずの状態だった。きっと様々な情景が頭の中を駆け巡っているのだろう。そういう時は上手く言葉に出来ないものだ。
実際、マリヤの行為を目撃している者はいないと思われる。マリヤの背後にいた人間の陰になり、死角となっていただろうから。
それにマリヤの背後にいた奴も転んだマリヤをそっちのけで、車内へと乗り込んだのだ。目撃している筈もない。とりあえず、今回の事でマリヤは何の抵抗も感じる事なく、行動に移せる事がわかった。それだけでも収穫ではある。が、やはり圭介はマリヤに漂白者の真似はさせたくなかった。
「車椅子に乗ってれば上手くいったかも」
「無理だな。だってその時点で笹野ゆうこの尾行が難しくなる」
「んー。そう言われればそうかもだけど、やりようもあった気がしないでもないのよ」
「どうやって?」
「わからない」
マリヤは言って笑った。わからないじゃ駄目だよね。
そう続けた後、マリヤは助手席に乗り込むと自宅に戻るまで口を開かなかった。
漠然と窓の外を眺め、時よりショルダーバッグの中に手を入れてはマイナスドライバーに触れているようだった。それはこれから先、マリヤが漂白者のようになる為の一種の儀式のようでもあった。
圭介が初めて手斧に触れ、それで殺人を犯した後で宝物のように大事にしたのと同じく、殺人者にとっての凶器はこのように時間をかけ信頼していく所から始まるのだ。
圭介自身がそうだったように、使用した凶器に触れる事でいつしか自分の肉体の一部となり、それを感じると共に生まれる深い絆と底知れぬ愛情と共に、より自分のスキルに対して自信を深めて行く。漂白者の凶器とはそういう物なのだ。
そんなマリヤの行為に対して圭介は何も言わず、ただ淡々と車を走らせて行った。
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