第八章 ⑧⑧

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第八章 ⑧⑧

永剛が夜中に嗅いだあのムッとした異臭はしばらくの間、家中に広がっていた。 けれど普段からゴキブリだらけのこの家にあってその異臭は直ぐにゴキブリ臭でかき消されてしまった。 住人である永剛はその違いに気づいていたが、いつしか慣れ気にしなくなっていった。 お母さんは今までと変わらず、仕事に出かけ、休み前の夜は決まって永剛を裸にし、流し台の所へ連れて行った。 永剛にする事はお母さんがお父さんにしていた事に似ていた。お父さんの時はキュウリだったが、その代わりにお母さんは細くて長い綺麗な自分の指を永剛のお尻の穴に入れた。 最初は痛かったけれど、回数を重ねるごとに慣れていった。痛さがくすぐったさに変わり、今ではお母さんの指がお尻の穴に触れただけで、ちんちんがムズムズした。 そのムズムズが来ると決まってその後にヌメヌメした液体がゴキブリの卵を一杯に含んで、ちんちんの先から垂れ流れた。 それを見るとお母さんは凄く喜んだ。永剛を抱きしめ頭を撫でるとその綺麗な手でお尻をポンポンと叩いた。そんな優しいお母さんも、今ではお父さんが居なくなった事も忘れてしまっているようだった。それは永剛も同じだった。 6月を過ぎると家の中に異変が起き始めた。 それまでほとんど見かけなかった蝿が、家の中を飛び始めたのだ。流し台に放置している生ゴミのせいかと思ったが、その付近での蝿はほとんど目にする事はなかった。 主に蝿が集まるのはお母さんが寝ている部屋だった。その部屋の押し入れが永剛の部屋だった為、そこにもたまに現れた。蝿を叩いて何匹か潰したけれど、日に日にその数が増え始め、良い加減疲れてしまいそうだった。 それでも押し入れの中に入ってきた蝿だけは叩き潰した。 どうしても蝿が飛んだ時の羽音や視界に入る動きが勉強の邪魔になるからだった。 夏休みが来ると決まって思い出すのは昆虫の標本の事だった。お父さんと一緒に逃げたと言われる先生がその標本を焼却炉で燃やした。 今頃になって永剛は当時担任だった先生に怒りを覚えた。その怒りはお母さんを捨て先生と一緒に夜逃げしたお父さんに対しも同じだった。 もし何処かで生きているならこの手で殺してやりたい、いつしか永剛はそう思うようになっていた。 その怒りで担任への恨みは上書きされたが、参観日などに姿を見せるクラスメイトの父親を見ると胃の中を掻き回されたみたいにムカムカし、腹立たしくなった。 そんな永剛だったが、だからといって他人に八つ当たりするような事はなかった。 八百屋やスーパーでキュウリを見かけるとお母さんにお尻を叩かれるお父さんの顔を思い出した。それに付随するかのようにお父さんと2人でオシッコをした事も思い出した。永剛にとってその2つがお父さんとの想い出だった。 実際には他にもある筈だが、永剛の記憶の中にはその2つ以外の想い出の断片すら残っていなかった。恐らくお母さんを捨て夜逃げをしたお父さんを憎む気持ちが強すぎて記憶を封印してしまったのかも知れない。 秋になると蝿の数は益々増えていった。 その頃には臭いを感じる事はなく、ただ飛び回る蝿がただただウザかった。 ゴキブリは動くものに対しては逃げる一方で、向こうから近寄っては来なかった。だが蝿は違っていた。動いている時もそうでない時にもお構いなしに永剛やお母さんの身体にとまって来た。それが元々蝿に備わっている性質なのかは永剛にはわからなかったが、そのウザったさには中々、苛々させられた。 翌日、お母さんにお願いしアースジェットを買って来て貰った。それを家中に噴霧したら、一時機はその姿を見ることは無くなった。 だが2、3日もすると又、どこからともなく現れ家中を飛び始めた。これを機に永剛は頭の中で蝿の存在を、遮断した。そうすると何故か気にならなくなり、それをお母さんに話すとお母さんは最初から僕より気にしていないよと笑いながらそう言った。 冬になると蝿はいなくなり、永剛は益々、勉強に集中するようになった。2年後には中学生だが、永剛の中ではその時には高校受験の事を踏まえた勉強をしたいと考えていた。 どちらかといえば、英家はお金に余裕がある家庭ではなかった。だから学費が安い公立の中学に入る事を考えていた。アルバイトという選択も頭にはあったが、それは中学、もしくは高校に入ってから考える事にした。幸い一緒に遊ぶ友達もいないので、誰に邪魔される事なく勉強に集中出来た。押し入れの中はまさに勉強に打ち込むには打ってつけの部屋だった。 そんなある雪がパラつく寒い夕方、永剛が学校帰りに河川の草が伸びた土手を歩いていると、柔らかな物を踏み付けた。 その感触が足裏に伝わると背中に鳥肌が走った。気持ち悪さと震えの中、永剛は今し方自分が踏んだものを眺めた。そこには冬眠から目覚めたのか、それとも子供の悪戯で土から掘り出されたのか、わからないがさほど大きくない身動きしないカエルが偉そうに座っていた。 永剛はそのカエルに向かって足を振り上げた。何度も何度も踏み付けた。カエルは今際の際に甲高く鳴き死んだ。足を退けると踏み潰されたカエルから目玉が飛び出し、口はひん曲がり、片足が千切れていた。 土色の内臓が横腹から飛び出し地面を濡らしていた。 その姿は全然、綺麗じゃなかった。お母さんがその綺麗で長く細い指で潰すゴキブリや蝿のように、潰された後が美しくなかった。その死骸を見て永剛は潰すからには必ず美しくなければならないと思った。 それからというもの、永剛は勉強の合間に美しく潰せる方法と手段というテーマで様々物を潰す想像をした。 だが、想像するだけでも何故か上手く潰せなかった。その理由は直ぐにわかった。永剛には細く長い綺麗な手がなかったからだ。それを遺伝子として母から受け継げなかった事を永剛は心の底から恥じた。息子として恥ずかしかった。 自分の身体にはお父さんの遺伝子が色濃く反映されたようだ。それを拒むかのように永剛は、潰す事に執着し始めるのだった。 潜在意識下で、お父さんに捨てられた自分という存在を否定したかったのかも知れない。 だがまだ小学生の永剛に潜在意識下の事などわからる筈もなかったし、どうでも良い事だった。 必要なのはその時に感じる気持ちだけだった。湧き上がる感情に戸惑う事はほとんどなかった。 何故なら永剛に友達はおらず、周りから永剛の気持ちを揺さぶるような出来事や言葉を受ける事がなかったからだ。 永剛は成長するにつれ、日に日に増幅していくお父さんに対する憎しみを解放するかのように、 「叩き、潰す」 というワードに固執していくようになっていった。
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