第八章 ⑧⑨

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第八章 ⑧⑨

逮捕から数日経っても室浜要の件で警察から連絡が来る事はなかった。 詳しい事は警察じゃないからわからないが恐らく赤津は圭介の存在がわかるような物は所持していなかったのだろう。 室浜要の供述によれば、高校時代からずっと赤津奈々に片想いをしていたがその気持ちを伝えた所、赤津にそっけない態度を取られ、カッとなって殴ったらしい。 娘である赤津メグを連れ去ったのは無理矢理にでも赤津の気持ちを自分に振り向かせる為にそのような行動を取ったとの事だった。 娘のメグを何故、原宿付近で解放したのか、その事については何も触れられていなかった。 圭介にわかるのはニュースで報道されたこの程度のものだった。 ただやはり気掛かりなのはパーキング場で見かけたあの刑事の事だ。 室浜を逮捕したのは渋谷署の刑事だったが、杉並署に移送された事を踏まえると、あの刑事はそのどちらかに所属している刑事という事になる。 となれば事件が解決した今、逃亡中ならともかく、わざわざ赤津や室浜と同級生だった人間を調べる為に都外まで捜査の手を伸ばすような事はしないのではないか。 奇跡的にこの事件に何か特別なものを感じジャーナリズムに火がついた、フリーのライターでもいれば話は別だが。 とりあえず、これ以上警察については心配する必要はないだろうと、釣具を片付けながら圭介は思った。 9月後半だというのに未だ暑さが続いている。その為、シャワーを浴びた後では自室のクーラーもつけっぱなしだった。肌寒いくらいの中、ベッドの中でマリヤは布団に包まり寝息をたて気持ち良さげに眠っている。圭介はリモコンを手に取って設定温度をすこしばかり上げた。 朝食の支度をしながらマリヤを起こそうかと考えたが、さっきの寝顔が脳裏を過り、自然に起きるまでそのままにしておく事にした。 ハムエッグにほうれん草のおひたしに豆腐とワカメの味噌汁という簡単な朝食を作るとリビングへ運んだ。TVをつけ朝のニュース番組に合わせる。 どの局も未だ笹野ゆうこの失踪については報道されていない。数日、連絡が途絶えているのだから不倫相手が心配しても良さそうなものだが…… ひょっとするとあの体育会系の不倫相手は、笹野ゆうこと連絡がつかない事を良しとしているのかも知れない。もしそうなら、近々にでも笹野ゆうことは別れるつもりだったのだろう。 何にしろ、捜査が遅れるというのは良い事だった。何故なら時が経った分だけ証拠も消えていくからだ。まぁそんなものを残す程、圭介はマヌケではなかったが。 防犯カメラ等も全て避けた上での笹野ゆうこの拉致だ。そうするにはあの場所が最適だった。いや、あそこでしか拉致は出来なかった。だから笹野ゆうこがいなくなった事が世間に知れ渡っても自分へ繋がる物証はなく、これについては特に何の心配もいらない。 マリヤの目つきが変わったと気づいたのはそれから数日後の事だった。10代特有のキラキラした瞳の輝きが、いつの間にか薄れて来ていたのだ。曇ったと言った方が正しいかも知れない。 目にカラコンを入れたみたいに、マリヤの目に薄い灰色の膜が張られつつあった。例えばその目から涙が溢れても見る人が見れば嘘の、偽善の涙と見て取るだろう。 例えそれが心から悲しみに暮れた人間の涙としても、そうだとは受け取っては貰えない気がする。これは自分の時もそうだった。人間を殺すという事は、その時点までその人間に備わっていたものが、欠ける事を意味する。 心の中に変化が起きるのは勿論だが、表面的には絶対的にその瞳に現れる。それは殺人を犯す前と犯した後のどちらの人間もよく観察していなければわからない事ではあるが、圭介は充分過ぎるほどマリヤを観察していた。だからこそその瞳の変化に気づいたのだ。 その変化以外、特に変わった様子はなかったが確実にマリヤは漂白者へと変貌しつつあった。 やっと昼過ぎに起きた来たマリヤは直ぐにスマホを手にしてゲームに夢中になっていた。そのマリヤを置いて圭介は小屋へと向かった。工具の手入れのついでに鰐の水槽の掃除をしようと思ったのだ。 椅子に座り工具に触れながら、今後、アリゲーターマンとして第6の殺人を決行するか、否か考えた。 正直な所、決めかねていた。その候補に上がっている人間は複数いたが、今、急いでそれをするべきか?と問われればわからないとしか言えなかった。 アリゲーターマンの事件については千葉県警が血眼になりながら捜査をしている筈で、並行してスナック天使のママとその従業員、そして現職だった女刑事殺害事件も追っているに違いない。 正直、あの1人の女が現職の刑事で尚且つ、もう1人の女と共謀し、殺人を犯していたなんて信じられなかった。何なら奇跡的に仲間として手を取り合う可能性もあった事に圭介は苦笑いを浮かべた。 仲間を作るのは決して良い事ばかりではない。寧ろ最悪な方へベクトルが向かっていく確率の方が高くなる。 だからこそラピッドは分業制に分かれているのだ。仲間意識を出来るだけ排除し、個人情報も守られるようになった。英永剛という漂白者や白石萌の情報を得ようとしても出来ない不便さはあったが、それでもそちらの方が仕事はやりやすかった。だからあの現職の女刑事と仲間になり警察内部の情報を得られたとしても、いつかはそれ以上のマイナスな点が生まれて来ただろう。結果、殺して良かったと圭介は思った。 その現職刑事の事件も踏まえ警察の手が足りないとは思えないが、新たな情報が発表されてない所をみるとどの事件も行き詰まっているのかも知れない。 だが圭介はこれをチャンスだとは捉えなかった。慎重に慎重を重ねすぎると思わぬ所でボロが出たりミスを犯したりするが、だからこそ、時には大胆である必要があるのは身をもってわかっていた。だが大胆と無鉄砲は違う。どちらかというと圭介は大胆の方だったが、今、第6の殺人をやるのはやはり得策ではないと考えた。 一通り工具の手入れが終わると水槽の水を抜いた。しばらく掃除をしていなかった為に、内側には苔が生えている。その為、外からでは鰐の姿は見えなかった。水を抜いている間、圭介は脚立と水道ホースを用意した。脚立を伸ばし水槽の側に立てかける。水道ホースを持ってそれを登った。その後で一度降りてデッキブラシを持ち、水道の蛇口を捻り再び脚立に登った。水槽の水が抜けるにつれ、鰐の背が見え始めてくる。その事が不満だったのか鰐が尻尾を振り上げ水面を叩いた。そんな鰐の姿を見て、圭介は元気そうで何よりだと思ったの束の間、前足のない鰐の姿が見えなかった。 「何処にいるんだ?」 どんどん水位が下がって行く中、圭介は四方に目を凝らした。前足のない鰐は水槽の隅で小さくなっていた。 よく見ると尻尾の一部と後ろ足の片方が欠損していた。その為に元気がないのか。それとも死んでいるのか圭介にはわからなかった。直ぐに水をかけてやると微かに身動きを取ったので生きてはいるようだ。だが、圭介の知らない内に、この前足がなかった不具の鰐は健常のこいつに襲われたのだ。 しばらくの間、こいつらに肉を食わせてやれなかったせいだろうか。いや、鰐は一度食べると数週間は何も食べなくても平気な筈だ。という事はやはり2匹の間で何かしらの争いが起こったらしい。だからといって不具の鰐を助けるつもりはなかった。水槽の中に入り助けだそうとして、もう1匹の鰐に襲われないとも限らない。 勿論、不具な方からも襲われる可能性だってある。 が、それ以上にここは動物園じゃない。見せ物として飼っているわけではないのだ。残念だがこの狭い水槽の中で生きる力のないものは死んでいくしかない。 圭介は不具の鰐に向かってそういうと、ホースの先を潰し、さらに勢いの良い水を背中にかけてやった。 水槽の縁に座りながら内側のガラスをデッキブラシで擦った。綺麗になると移動しまた擦る。水をかけ又移動する。これを4面終わるまで行った。そして新しい水を水槽に入れ、排水バルブを閉めた。 家に戻るとマリヤはまだスマホのゲームに夢中になっていた。圭介はシャワーを浴びてから遅めの昼食の支度を始めた。 と言ってもお湯を沸かすだけの事で、今日はカップ焼きそばを食べたくなったのだ。 マリヤも同じ物が食べたいといい、2つにお湯を入れた。 TVを見ながら2人で焼きそばを食べている最中、 マリヤはそのTVに向かって、あーでもない、こーでもないと、1人ぶつくさ言っていた。 「なぁ、マリヤ」 「何?」 「今後はどうするつもりか決めているのか?」 「どうするって何が?」 「何がって……そんなの決まってんだろ」 「あぁ。そっちの事か」 「そっちって、他にも選択肢があるような言い草だな」 「あるよ。全てを忘れて実家に帰るって選択肢がさ」 「マリヤ、お前……」 「冗談冗談。ごめんね。そんなつもりはなかったし、あったとしてもとっくの昔に私の帰る場所なんて無くなっているからさ」 「それはどういう意味だ?」 「意味も何も帰る場所はない、言葉通りの意味だよ」 「家族は?」 「多分、いる」 「多分?」 「うん。私、高校1年の時、家出しちゃってさ。それっきり実家には戻ってないから」 「連絡はしてないのか?」 「うん」 「そんな時から家出してたのなら、両親はさぞかし心配しているのじゃないか?」 「どうかなぁ。私の両親って放任主義だったし、私自体にも興味がなかったようだから、むしろいなくなって清清してるかもね」 「だとしても、一度は連絡しておいた方が良くないか?」 「何の為に?」 「無事な事をさ」 「ちょっと待って」 「何だよ」 「私は既に殺されて死んでいる人物だって言ったのは圭介だよ?だから外出は控えるようにしろって。そんなゾンビのような私に向かって真顔で両親に電話しろなんて良く言えるわよね?そんな事、出来るわけないし、するつもりもないから。だって私は、五月女マリヤは既にこの世に存在していてはならない人なんだから」 「そうだった。悪かった」 圭介は素直に謝った。勿論、電話なんてさせるつもりはなかった。そのように振ればマリヤが自分の過去を話すかと思っての事だったが、遠回しに過去を喋らせるという安っぽいやり方はマリヤには通用しなかった。
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