第八章 ⑨②

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第八章 ⑨②

20代中盤の無職の息子の家を張り込んでいた班から、息子に動きがあったと本部に連絡が入ったのは昨夜の2時頃だった。 その頃、泡沢は着替えもせず床の上でぶっ倒れていた。お陰で連絡にも気付かず、その情報を耳にしたのは翌朝の捜査会議での事だった。 息子は深夜2時に外出し自家用車のセダンに乗って家を出た。 1時間近く市内をドライブした後、何かを思い立ったかのように高速道路方面へとUターンをし東京方面へ向かったとの事だった。そこまでは良かった。 だが、最悪なのは都内に入ってから直ぐに、あっさりと振り切られその息子を見失ったとの事だった。ひょっとするとその息子は、最初から刑事の尾行に気付いていたのかも知れない。 本部長は拳で長机を叩きながらこの失態を罵倒した。 勿論、その怒りはここにいる全捜査員がに向けられたものだ。泡沢はそのように捉えた。でなければ何日もぶっ通しで張り込みをしていた刑事が浮かばれない。 尾行にしても油断していたわけではなかった筈だ。それに見失ったのは都内に入ってからだと言うじゃないか。 都内ともなれば県内の刑事が詳しい筈もない。おまけに深夜帯だ。その時間帯で制限速度を守って走っているドライバーなんていやしない。 大型トラックだって飛ばしているのだ。その息子が僅かでも都内の道に詳しければ、尾行の刑事を巻く事くらい容易いだろう。 一度でも黄色信号の時に駆け抜ければ、追う事は難しくなる。幾ら尾行中だからといえ、黄色信号の時に警察車両が突っ込めるわけがない。これは失態でも何でもないと、半年前まで杉並署にいた泡沢だからこそわかる事だった。 だが、尾行に失敗した班の連中を励ますような事はしなかった。1番悔しいのは本人達が良くわかっているからだ。 怒りをぶちまけたいのはこっちの方だくらいに思っているだろう。だがやはり刑事も警察組織に属している以上、上の命令は元より、その怒りは甘んじて受け入れるしかなかった。 自分達は言い訳が微塵も通用しない世界の中に身を置いているのだ。 だから2度と失態を犯さぬようその経験を活かすしかない。事件解決に心血を注ぐ事でしか失態を取り返す事は出来ないからだ。それが刑事という生き物の性だった。 午後、男性宅付近で張っていた刑事がセダンで帰宅して来た男性を任意での事情聴取に応じるよう求めた。が、男性はあっさりとそれを断った。 半分脅しを含んだ言葉で車内を見せるよう男性に詰め寄ったが、警察馴れをしているのか男性はヘラヘラと笑いながら、当然だと言わんばかりに拒否をした。 「家宅捜索令状持ってくれば?それなら、強力してやるよ」 「舐めやがって!なら直ぐにでも裁判所で令状請求して来てやるから、待ってろ!」 と尾行を巻かれた失態から来る苛つきで、その刑事は思わず怒鳴ったようだった。 息巻いて帰って来た捜査員2人を待ち受けていたのは課長の雷だった。男性とのやりとりを撮影された動画がSNSで拡散されていたのだ。恐らく息子が帰宅前に刑事の姿を確認し、親に連絡をし撮影するよう命令でもしていたのだろう。そのSNSには警察官の横暴。任意だよね?。え?2人はヤクザ?などのコメントが書き込まれていた。 だが、これでハッキリした。この男は鰐男ではない。泡沢には確信があった。あの殺人鬼鰐男が、こんな事をSNSにアップする筈がない。何故ならアップするなら、自らオブジェのように飾ったバラバラ死体の刺激的な映像や写真がある筈だからだ。 だが鰐男は一切、そのような事はしていなかった。興味がないのか、それとも個人的に楽しむ為だけに保存しているのかはわからないが、この男性のように複数のSNSを使って他者の目を自分へと注目させるよう仕向けるミュンヒハウゼン症候群的な部分は欠落していると思われる。 だから泡沢はこの男性を調べる必要性はないのでは?と横槍を入れた。言われた捜査員は鬼の形相で泡沢を睨みつけたが泡沢は冷静に言葉を続けた。 「男性は警察に車を調べられても何も出ない事がわかっているのでしょう。わざとこちらを挑発し家宅捜索をさせその光景を撮影し再びSNSにアップしてやろうと企んでいるだけだと思います」 そのように泡沢が告げると、課長は一瞬だけ冷静さを取り戻した。 そして令状請求など、するんじゃないぞ!とどやしつけ、2人の刑事を諌めた。 泡沢はその2人の刑事に向かって頭を下げた。 余計な事をいいすいませんと言う意味合いの謝罪だ。2人のプライドを傷つけない為の泡沢なりの気遣いだった。 小川さんが戻って来たのはその日の夕方だった。 「小川さん」 思わず椅子から立ちがる。勢い余って椅子が他の捜査員のデスクに当たりひっくり返った。 「今まで何処に行かれていたんですか?何度も連絡を……」 「いちいち連絡して来やがって。俺らは付き合い始めのカップルじゃねーぞ」 「そりゃそうですけど」 「まぁ、連絡しなかった俺が悪いんだけどよ」 「そうですね」 「チェッ。そこはそんな事はありませんって嘘でもついて、俺の気持ちを楽にするくらいの気遣いが出来ないもんかねぇ」 「気遣っても連絡を返さなかったのは事実ですから」 「ったくちょっとは先輩に気を遣えってんだ」 「以後、気をつけます」 「だか、泡沢、あいこだからな」 「あいこ、ですか?」 「そうだよ。お相子って事だ」 「何がですか?」 「何がじゃねーだろう!お前だって……」 そこまで言われて泡沢は杉並署の捜査を手伝った日の事を思い出した。直ぐには連絡を返さなかったが、最終的にはその日の夜にメールは返信した。だが小川さんは丸2日音信不通だったのだ。 なのにお相子とは。とてもお相子にはならない。が、今それを言うと小川さんは勢い余って杉並署の捜査の件を口走ってしまう可能性があった。だから泡沢は直ぐに 「お互い様ですね。はい。小川さんのおっしゃる通りです。すいませんでした」 泡沢は謝罪し倒れた椅子を引き起こした。 「ま、まぁそうだ。お互い様だ」 「ですが、本当小川さん、この2日間、何処に行かれていたかは聞いても良いですよね?」 「良いですか?だって?とっくに聞いているだろうが。ったく若い奴みたいな言葉使ってんじゃねぇよ」 「すいません」 言いながら泡沢は笑いそうになった。口元を引き締めた。 「嫁さんの墓参りに秋田まで行ってたんだよ」 「秋田?」 「あいつとは同郷でな。生まれ育った町は違ったが、こっちで知り合った時には故郷の話で盛り上がって気づいたら結婚してたのさ」 「そうでしたか……あ、なら法要で帰省されていたのですか?」 「馬鹿か。嫁さんは死んで5年だ。だから次の法要は2年後だ」 「すると7回忌ですか」 「そうなるな」 「ならどうして法要前に墓参りなど……」 「ったく。お前の脳みそは本当にチンポにあるだな。大体、人がいつ故郷に帰ろうが、墓参りしようが、勝手だろうが」 「あ、はい。ですね。すいません。そうですね」 「で、まぁ、何もないとは思うが、俺がいない間、進展はあったのか?」 泡沢は例のセダンの持ち主でもある、あの男性の話をした。 「まぁ、そういう感じなら、先ずお前の言う通りで間違いないだろう。だが、だからといってそいつが完全にシロってわかった訳じゃねぇ。そうだろ?」 「まぁ、そうですが」 「あの2人もそれくらいのことはわかってんだろ」 「と、言いますと?」 「鰐男の事件とは関わりはないかも知れないが、他に悪さをしている可能性が無いとは言えないよな?」 「それを言ったら張り込んでる家庭の人間は皆、そういう理屈も含まれた上での張り込みって事になるじゃないですか」 「まぁ、それは言い過ぎだが、だがその男に関しては挑発してくるくらいの野朗だから、あり得ん話でもないだろ」 「そうですが……」 「恐らくだが、近々にでもそいつ以外の残りの2家庭の張り込みは解かれるんじゃねぇか」 小川さんの読み通り、3日後にはその2家庭の張り込みは解かれる事になった。再び理由はSNSにアップされる可能性を恐れての事だろう。 「家、何日も前から刑事に張り込まれてんだけど?」 毎日同じ車両が止まっているのを見かけると不審に思われるのは致し方ない事ではある。それにより無関係な家の住人でさえ、動画を撮影しアップするかも知れない。 今の時代、やはりSNSでの拡散は警察を含めた捜査員にとっては脅威であった。 そして、そうなる前にその2家庭を張り込んでいた班の人間はスナック天使のママ殺害事件の応援で所轄に駆り出される事になった。つまり現状、鰐男の捜査に携わるのは実質、小川班の2人だけとなってしまったのである。
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