第八章 ⑨⑤

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第八章 ⑨⑤

「英くん」 5時限目が終わり鞄に教科書をしまっている時、そのような声がした。 中学に入学して3カ月、誰とも会話をしていない永剛にしてみれば、空耳と疑うのも無理もなかった。 だから聞き間違いだと思い、残りのそ教科書を鞄に入れようとした。 「英くんっ」 2回目でようやく動かしていた手を止めた。伏せ目がちで周囲を見渡した。やっぱり空耳だったのかと気を取り直した時、いきなり自分の正面に女子が立っていた。 永剛の机に両手を着き、何かに挑むような厳しい目で永剛を見返している。その女子には見覚えがあった。 クラスメイトだから見覚えがあるのは当然の事だが、永剛は努めて誰とも目を合わさないよう気をつけていた。 合わすと話をするきっかけを作る事に成りかねないからだ。永剛は母以外の人間と話をする事は勉強の妨げになると考えていた。 だから今、初めて声をかけられた時、気のせいだと思ったのだ。声をかけて来たのはクラスの図書委員をやっている遠藤冴子という女子だった。 その女子の名前と顔に見覚えがあったのは、彼女が学級委員に立候補したからだった。 だが立候補したにも関わらず遠藤冴子は多数決で落選した。担任は遠藤冴子の積極性や自主性を軽んじたわけだ。入学して間もない時期だからといって担任が独断と偏見で更に男女2名ずつ、計5人が選ばれた。 その5人の中で委員長、副委員長、風紀委員、そして図書委員の4人を多数決で決める事になった。全く知らない人間達をいきなり選ぶという事に永剛は呆れたが、仕方なく最初に名前が呼ばれた人へ手を挙げた。 学級委員長に立候補をしたのにも関わらず、遠藤冴子は最終的に図書委員に選出された。 その時の怒りを隠しきれない表情を永剛は覚えていたのだった。 「英くん、図書室で借りた本、まだ返してないよね?」 永剛はしばらく考え、思わずあっと言葉が漏れた。 「あっ、じゃないよ。貸出期間は1週間なんだよ?わかってる?」 永剛は首を横に振った。 「とっくに返却日過ぎているんですけど?」 「え、本当に?」 「私が嘘言って何の特になるのよ?」 「そ、そうだよね」 「あの本、一冊しかないんだから、英君が返してくれないと他の人が読めないじゃん」 遠藤冴子はそう言うと永剛に向かって手を突き出した。手の平を上にしているという事はそこへ借りている本を置けという意味だろう。 「今は持ってない」 「何処にやったの?」 「家」 永剛がいうと遠藤冴子は呆れたという風にため息をつき、肩を落とした。 「なら明日でいいから。明日、必ず返却してよね」 永剛は頷き、再び鞄に教科書をしまい始めた。 借りていた本は浦尾三代子という作者が書いた、 「川へ沈む」という小説だった。 たまたま図書室で宿題を済ませている時に見つけた小説で、タイトルが気になって借りたのだ。 そのタイトルが永剛に人間の死を連想させたのも借りてみようと思った要因だった。 厚い本ではなかったから、一気に読んだけれど 内容は忘れてしまった。それくらい心に残らなかったと言う事だ。作者はこの小説を出版した後、自殺したらしいがその事については何も感じなかった。 自殺するほど追い込まれながらこれを執筆したのかな?程度の気持ちで読み進めたが、内容から作者が精神的に追い込まれているとは微塵も思えなかった。だからだろう。借りていた事も忘れてしまっていた。 ツンケンした表情で永剛の前から立ち去った遠藤冴子は教室の後ろの隅で他の女子と固まって何か話している。 話し声が大きいのはわざとこちらに聞こえるように仕向けているからだろう。 「え?冴子、あいつと話したの?」 「嘘?変な事されなかった?」 「私だって近寄りたくなかったし話もしたくないわよ。けど仕方ないじゃん、あいつが借りてた本を返さないんだからさ」 「最低〜」 このようなクラスメイトからの陰口は小学生の頃から変わらないし、とっくに慣れていた。 だから気にも留めなかった。 「暗い」「不潔」「なんか臭い」等の言葉の攻撃はこちらが無視をしておけば気になる事もなかった。 面倒なのは物理的に嫌がらせやイジメをして来られる時だ。どうでもいい奴をわざわざ標的にし、複数で嫌がらせをしてくる。 自分なら他人にそんな労力を使うような真似はしない。だったら最初から仲間外れにすれば良い話だ。こちらから仲間外れにして欲しいと言いたいくらいだ。 だが、頭が悪い奴らに限って余計なちょっかいを出してくる。その時が来たら、無言でやり返すだけだが、今の所、そのような様子は伺えなかった。 ただ、陰口を言っているのは女子だけじゃない事は知っていた。永剛はいつかクラスの男子が自分を標的して来るのは時間の問題だろうと考えていた。 そうなればなったでやりようはあるが、面倒なので出来る事なら避けたかった。そうなる前に誰も近寄って来ないような、何か手を打っておきたい。 教科書を全て詰めた鞄を持って永剛は教室を出た。下駄箱に向かって歩いていると、小学生時代に同じクラスだった顔を、数人見かけた。その中の1人に、丸永誠治の姿があった。確か小学生の頃、転校して来た奴だ。足が速いと噂の男で運動会の後、永剛に勝負を挑んで来た。その丸永と目が合うと、向こうから手を挙げ、こちらへ走って来た。 「よう、久しぶりじゃん」 丸永は永剛の肩に手を置いた。小学生時代から随分と成長したようだった。身長も永剛より10センチは高いだろうか。上半身の横幅も広く全体的に筋肉質だった。 「お前もこの中学だったんだ?」 「そうだね」 「奇遇だなぁ」 奇遇も何もない。こっちは金銭的に余裕がないからこの中学しか行けないんだよと思いながらも口にはしなかった。 「そうだね」 「英は、何部に入った?」 馴れ馴れしいなと思いつつも 「入ってないよ」 「どうしてだよ」 「面倒くさいから」 「陸上部入らないか?」 その言葉で丸永は未だに小学生の頃、勝負出来なかった事を根に持っているんだなと永剛は感じた。 「入らない」 「どうしてだよ?英、足早いだろ?」 「あぁ、前はそこそこだったけど、去年、自転車で転んで膝を痛めてから全力で走れなくなったんだ」 嘘だった。 「マジか?」 「うん。だから運動は厳しいんだよね」 「何だよ、それ。残念だなぁ。お前と真剣勝負したかったのにさ」 「悪いね。そういう事だからさ」 「わかったよ」 丸永はいい、再び友達の方へと走って行った。 実際、今、丸永と勝負しても勝てる気はしなかった。身体の大きさも段違いだし、何より、その身体つきからして、明らかに鍛えてきた感があった。 その自信が永剛に対する言葉使いとその態度に表れていた。小学生時代、永剛に転かされ口の中に椅子の足を入れられた事に対する屈辱をバネに丸永は努力し続けて来たのだろう。 一方、永剛と言えば運動は体育だけでその他は一切して来なかった。そんな奴がまともに勝負して勝てるわけがない。永剛は早くに丸永をあしらえて良かったと思った。 家に帰ると真っ先に図書室で借りていた本を探した。押し入れの中の段ボールで作った本棚にあると思っていたが、そこにはなかった。 敷きっぱなしの布団の下をめくってみたが見当たらない。母が勝手に持って行ったのか?永剛はそう思い押し入れを出て母の布団や箪笥の中を漁って見た。 が、やはり見当たらなかった。連絡を取ろうにも自宅に電話はなく母が帰ってくる夜まで待つしかなかった。 最初はそう思い、ブリーフとランニングシャツのいつも姿になった。冷蔵庫から冷えた水を取り出しそれを流し台に置いてある使いっぱなしのコップに注いだ。 永剛が中学に入ってから母は全く料理をしなくなった。もう大人なのだから食べたければ自分で作れば良いだけの事といい、それっきり1度も作ってくれる事はなかった。そのお陰もあってか殆ど生ゴミが出なくなり、流し台からはゴキブリやショウジョウバエの姿が減っていった。 勿論、居なくなった訳じゃない。床や廊下、天井、壁、トイレや風呂にはそれまで通りゴキブリ達は存在していた。小学5年の春が過ぎた辺りで異常に発生した蝿も今ではごく僅かになっていた。 恐らくゴキブリ達が食べてくれたのだと永剛は思っていた。異臭もそれほど長くは続かなかった。夏の時季が1番きつかったが、それも直ぐに慣れ、それまで通りに生活が出来るようになっていた。 確かその前後だった。夜中に物音がして目が覚めた永剛は押し入れの戸の隙間から寝室を覗くとそこにはマスクをした母が畳を持ち上げている所でその後で袋に入ったゴキブリを床下へと捨てていたのは。 それを目撃した数日後から異臭がし始めたのだった。永剛は冷えた水を冷蔵庫に戻しコップを持って押し入れに向かった。母の布団を踏みつけながら開けっ放しの押し入れの中へコップを置いた。屈んで中に入ろうとした時、永剛はふと後ろを振り返った。掛け時計を見た。4時前だった。母が戻って来るまで3時間はある。 永剛は振り返り母の布団を端へと押しやった。 そして畳の上に正座した。記憶を辿りながら畳を眺めていると1箇所だけ畳と畳の隙間があり、その部分だけ異常に凹んでいた。確か母はバールを使いこの畳を持ち上げていた。永剛は夜逃げした父が昔使っていた工具類が置いてある玄関横の段ボールへと向かった。 かなり錆び付いているがバールや釘抜き、ハンマーや大小様々なドライバーに、ラチェット等が放置されてある。永剛はバールを持って部屋に戻った。 そして凹んだ箇所にバールを突っ込み、畳がある方とは逆へ押し倒した。少し浮くとバールの前に来てお尻を当てた。シーソーに乗る要領でバールを倒していった。 畳と床の隙間に両足を差し込み、バールを引き抜いた。畳の重みで足の甲が痛かったが、永剛は構わず上半身を起こし今度はそこへ両手を入れた。 両足を抜いて中腰になり、力の限り持ち上げた。畳を押し上げる。前に倒す為に片足を後ろに下げ両足で踏ん張った。足の力を利用し押し倒して行く。畳の下にある板の上を少しずつ進み、畳が直立し壁に当たるまで押した。畳が壁に立てかかると、永剛の全身から玉のような汗が拭き出した。 と同時に畳の下にある板を永剛は眺めた。顔を近づけて見ると釘穴が複数あった。だがそのどれにも釘はなかった。永剛は板に手を置き押してみた。びくともしない。おかしいなと永剛は思った。わざわざこの板の上にゴキブリを捨てるだろうか?そしてゴキブリを潰し殺す為に又、畳を置く?そんな筈はない。 永剛は再びバールを手にして板と板の隙間に差し込んだ。するとパカッという音と同時に板が一枚外れた。永剛はつづけて残った2枚の板を外した。 中は暗くよく見えなかった。押し入れから夜に勉強する為に使っている懐中電灯を取って来た。中に向かってライトを向けたその瞬間、床下の土に塗れた白っぽいものが見えた。永剛はしゃがみ込み、床下へ顔を近づける。床下に閉じ込められていた蝿達が懐中電灯の光に向かって一世に飛んで来た。その蝿達を手で払いながら白っぽいものへ顔を近づけた。 懐中電灯を口に咥え、腹這いになる。両手を使って土を払った。土の中からある形を目にした永剛は思わず微笑んだ。その拍子に懐中電灯を落としてしまった。何となくは気づいていた。 そもそもどうしてお父さんが僕の担任だった先生と夜逃げをするのか。母の言葉は当時の永剛にも嘘だとわかるものだった。幾らなんでも母は僕を馬鹿にし過ぎだし、子供扱いし過ぎだったのだ。 そうか。母がここにゴキブリを捨てたのはお父さんの死体を食べさせる為だったようだ。確かにゴキブリは腐敗した死体なども食べはする。けれど白骨になるまでは食べはしない。人間の死体を白骨化にするのはウジだ。ゴキブリじゃない。ウジなら全てを食べ尽くしてくれる。永剛はニヤニヤしながら懐中電灯を拾い上げた。 だからいっとき蝿が異常発生したのか。それなら家中に蝿が増えた事も納得だった。永剛は板を嵌め畳を元に戻した。布団も直してバールを段ボールに戻した。 流し台で手を洗い、懐中電灯についた土をティッシュで払った。押し入れに戻りコップに入った水を一気に飲み干した。母はどうやって父を殺したのだろう?故意か?それとも偶々そうなってしまったのだろうか? 恐らく偶々だと永剛は思った。今では父の代わりをやっている永剛だからこそわかる事がある。 母は日に日にエスカレートして来ているのだ。だが永剛がまだ子供だったから母はある程度、手加減していた。それはやられてる側からすれば良くわかった。だが父は大人だった。それが何を物語っているかは想像に難くない。 永剛はもう一度制服に着替えた。 借りていた本の事を思い出したのだ。 仮に母が仕事場へ持って行ったとして、もしそれを忘れて帰って来たら約束した明日に返却が出来なくなる。 永剛の頭に吊り上げた目で睨む遠藤冴子の顔が浮かんだ。別に遠藤冴子が怖いわけじゃない。単に関わって欲しくないからだ。だから煩わしい事は早く終わらせたかった。着替えを終えると永剛は家を出て本屋へと向かった。
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