第八章 ⑨⑥

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第八章 ⑨⑥

家から学校までは歩いて30分程度の場所にある。なのに母は中学に入っても自転車は買ってくれなかった。 小学生の頃は自転車がなくても全く平気だったが、中学に通って3ヶ月、その必要性を永剛はひしひしと感じていた。 本屋まではその中学校より遠い場所にある。そこそこ田舎の町だから大きな書店はなく個人経営の本屋が2店舗あるだけだった。だから漫画の新刊やジャンプ、マガジン、サンデー等は直ぐに売り切れてしまう。 お小遣いも貰えていない永剛にとって漫画を買うという事は出来なかった。だから立ち読みするしかなかったが、新刊を読めた事は1度もなく、残っている単行本を読んだりするしかなかった。 小さい本屋だから漫画が全巻揃っている事はまず無く、巻数もバラバラだった。だから話の前後がわからない場合は自分で物語を想像し、補完するしかなかった。 けれどそれは意外に楽しいものだった。続きを読みたくても、本屋で長時間は立ち読みは出来なかった。店主のあからさまの咳き込みや、立ち読みはするなという言葉に、わざわざ遠くから歩いて来たのにも関わらず永剛はあえなく本屋を立ち去るしかなかった。 そんな事が続いてから、永剛は小学生の頃から学校の図書室で本を借りるようになった。漫画自体は置いてなかったから、仕方なく絵本や童話を読むようになった。学年が上がるにつれ絵本や童話は小説へと代わって行った。最初、絵がないのは退屈だったが、文字を読みながら頭の中で絵を作る作業に慣れると段々小説も面白くなっていった。そして中学生になり、久しぶりに図書室へ出向き借りたのが 「川に沈む」だった。 それまで読んだ小説の中で1番退屈だった。何故かわからないが、読んでいても頭の中で上手く絵が浮かばなかった。それがつまらないと感じた要因でもある事は何となくわかっていたが、再度読み直す時間も、その本も手元にないのだから諦めるしかない。それに明日、返却しなければいけないのだ。 永剛は玄関の鍵を閉め本屋へ向かって歩き出した。 本屋に着くと永剛は直ぐにレジに目をやった。 小学生の頃、立ち読みをしていて散々嫌味を言われた店主の親父がまだいるのか確かめる為だった。 横目でチラッと視認する。レジの所に居たのは、若い男性の店員だった。この家の息子だろうか。永剛は店の奥へと並行に設置してある雑誌の棚の前を横切り、一旦、足を止めた。 雑誌に触れながら記憶を辿り、前の店主との顔と今いる男性の顔を重ねてみた。似ているような、似てないようなあやふやなイメージしか浮かばなかった。 永剛は男性が椅子に座り、書類のような物を目にし始めたのを見て、早足に文庫本の棚へと移動した。作者の名前は確か浦尾三代子だった筈だ。 「川に沈む」が売れている本かは知らないが、こんな小さな書店に置いてあるか少し不安だった。だが明日までに手に入れ無ければいけない現状を踏まえると探すしかなかった。永剛はあ行から順に辿って行った。 う行の所に目的の本はなく、永剛は思わず舌打ちをした。見落としの可能性もあると思い、再度見直した。が、やはり浦尾三代子の本はなかった。 注文するにも返却は明日だから、無理だ。それにコーナーにあったとしてもそれを買うお金は持っていない。 実際、探し方が甘く実は家の何処かにあるかもしれない。だが永剛にそのつもりはなかったのだ。無いなら手に入れればいい。それだけだ。だ からわざわざ歩いて書店まで来たのだ。なのに目的の本がないなんてどういう事だ。永剛はもう一軒ある書店の事を考えた。そちらに行ってみるかと思った時、ふと出した足が止まった。永剛がまだ小学生の頃、店主に怒られた時によくやった仕返しを思い出したのだ。 仕返しというか嫌がらせの部類に入るだろうか。幼い子供が思いつくようなくだらない事だが、それをやり遂げると胸の中がスッとして気分が良かった。 本屋を出てざまぁみろと何度も言った記憶がある。それは漫画で言えば巻数をずらして並べ替えるとか、小説で言えばあ行の物をわ行の所に置き換えるという、子供ながらの悪戯だった。 それに気づいた店主がイライラしながら再び並べ替える所を想像すると自然と笑みが浮かんだ。永剛はその当時の事を思い返し、浦尾三代子の小説も他の所に移動させられているかも知れないと考えたのだった。 再度、あ行から目を通して行くと、ま行の所に目的の小説が置かれていた。永剛は目をキラキラ輝かせ、自分の勘の鋭さに酔い知れた。 どんな客がこの小説を別の棚に入れ替えたのか永剛にはわかりかねた。自分のように嫌がらせの為か。もしくはあ行に戻すのが面倒で、単に目の前の行の所に入れただけか。それはわからない。 だが今はそのような行為をした人の事を考えている余裕はなかった。永剛は素早く浦尾三代子の本を手に取り、四方の天井の角に目を走らせた。カーブミラーの様な万引き防止の為の鏡がある。そこに映るのは少し強張った表情の自分だけだった。それ以外、客の姿はない。 棚に隠れてレジへ目をやると店員はまだ書類のような物に目を向けていた。永剛は文庫本をシャツの下に入れベルトとお腹の間に挟んだ。そしてゆっくりと雑誌の棚の方へと移動する。 ここで重要なのは、万引きした緊張感で急いで店を出てはいけないという事だ。そして、白々しく「無いのかよー」等と言葉も発してはダメだという事だった。 そうやって逃げようとした万引き犯が店員に捕まったのを、本屋に限らず永剛は何度か目撃している。 だから永剛はわざとレジに行き、売り切れているのをわかった上で、週間漫画があるか店員に尋ねて見た。 「そんなのとっくに売り切れたよ」 若い店員は永剛の顔も見ずにそう言った。 「そうですか」 「もう一軒の本屋に行っても無いと思うよ」 店員は今度は書類から目を離し永剛の方を見てそう言った。 「行ってみるのも良いけど、行くだけ無駄だよ」 「はい。わかりました。ありがとうございます」 永剛は頭を下げて本屋を出た。家から逆方向へ足を進める。ここで走ったり、早歩きするのはダメだ。そういう奴に限って捕まったりする。 そしてわざと家から逆方向へ向かうのは、その先にもう一軒の本屋があるからだ。 例え、永剛の仕草を不審に思った店員が店から出て永剛の姿を見つけても、忠告したのに、わざわざ探しに行くのかと、半ば呆れる気持ちを店員の心に湧き上がらせる為にそのような行動を取ったのだった。永剛はしばらく先へ進んで、遠回りして家に帰った。 着替えを済ませて下着を持ってお風呂に向かった。バケツに下着を入れ石鹸を手に取る。 泡立てからその石鹸で体と頭を洗った。小学生の頃から永剛は髪を短く刈っていた。坊主に近いそれはシャンプーなどを買うお金を節約する為でもあった。 けれど、当時から母は母専用のシャンプーとリンスを使っていた。そのシャンプーは香りが強く自分以外の人が勝手に使っても、分かるように母が敢えてそうしていた。 一度だけどんなものかと使った時があったが、すぐに母にバレ、お尻や太腿の裏などを痣が出来る程、つねられた。それ以降、永剛は石鹸だけを利用するようになった。 そうなると髪の毛が長いのは非常に不便だった為、鋏を使い自分で散髪するようになったのだ。その短い髪を洗った後で下着も手洗いした。既にゴムも緩み、ぶかぶかだ。だが新しい下着を母が買ってくれるとも思えず、永剛は仕方なくそのような下着を履き続けた。 身体を拭いて裸で部屋に戻る。ハンガーにブリーフとランニングシャツをかけ、窓を開けた。 父が昔に作った簡易的な紐の物干しにその2つをかける。その後で乾いた下着を身につけた。 学校のシャツの襟をみて、軽く黒ずんで来ているのを確認した。 今から洗うのは面倒くさいので永剛は、シャツを洗うのは明日にしようと思った。押し入れの中に入り万引きして来た文庫本を手に取る。もう一度読み直そうかと思ったが、又、忘れては困ると思い、鞄の中に入れておく事にした。 こうしておけば明日、遠藤冴子に口煩く文句を言われる事もない。永剛は文庫本を入れると同時に教科書とノートを取り出し宿題を始める準備をした。 襖は開けっ放しで、部屋の明かりを頼りに宿題に向かう。 母が帰ってくる頃には全て終わらせるつもりだった。 宿題を終え明日の準備が済むと、流し台へ行きお湯を沸かした。夕飯は即席麺だった。それを食べ終わり後片付けをしてると母が帰宅して来た。 「お帰りなさい」 返事がない時は決まって職場で腹が立った事があった時だ。こんな日は出来る限り側に近寄らない方がいい。 けど、永剛は1つだけ確かめたい事があった。勿論、図書室で借りた本の事だ。 母が冷蔵庫からビールの瓶を取り栓を抜く。それを見て永剛が綺麗なコップを手渡した。 床に座り丸テーブルの上にビール瓶を置く。 ったく!と口走りながら、コップの中のビールを一気飲みした。2杯目を注いだ時に、永剛が声をかけた。 「お母さん、僕が借りて来た本、知らない?」 「知らないよ!」 という時は大体、知っている。ただ機嫌が悪いからそう言ってるだけに過ぎない。永剛はその事をわかっていた。 「川に沈むって本なんだけど」 「川に?、あぁ、あの小さくて薄い本の事かい?」 「うん」 「あれなら、部屋にいたデカい蜘蛛を殺す時に使ってそのまま捨てたよ」 「そっか。わかった」 「何だい?その顔は?」 「何でもないよ」 「ふんっ。中坊になった途端、あいつに似て来やがって、私の可愛い永剛は一体、何処へ行ったのかねぇ」 機嫌の悪い時の母の常套句だ。 永剛はそれを無視して、片付けに集中した。 永剛に無視された事に不安を感じたのか、母は 「必要な物だったのかい?」 と聞いて来た。 「ううん。別にいいよ」 「なら聞くんじゃないよ」 永剛はごめんなさいといい、流し台の周りを彷徨く、ゴキブリの子供を指先で潰して行った。
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