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風が強い。
海が青い。
波が荒い。
波と風が周囲の音をかき消して、ほかになにも聞こえない。
風が、強い。
セットしたはずのロングヘアは押さえていないと顔に張りつくし、前髪は全部持っていかれそうになるし。
失恋した。
ずっと好きだった幼馴染に想いを告げたら、そういうふうに考えたことはないと言われてしまった。
一晩中泣いた。枕を濡らすってこういうことかと実感した。目は赤いし顔はむくんでパンパンで、そんな顔で仕事になんて行けないから有給を使った。ついでに五日くらいプラスで休みを取って、傷心旅行することにした。
――あれ。またいる。
この旅行で宿泊しているホテルは海のすぐそばに建っている。一階のラウンジの横から浜辺に出られるようになっていて、みんな自由に散歩できる。
でも今は二月。しかも朝。こんな寒い季節に浜辺を歩いている人なんて滅多にいない。いるとしたらわたしのような、今なら波に攫われたって構わないと思っているような奴か、相当海とか散歩が好きな人とか、変人か。
と、思っていた。
波打ち際にしゃがみ込むその人は、わたしの知る限り、毎日この浜辺にきている。パーマのかかったブラウンのショートヘアが風でふわふわと揺れ、マフラーから覗く首筋は寒そうだった。
こんなに寒いのにいつもなにをしているのだろう。
……という疑問を振り払う。それはお互い様だ。そう思って目線を外したとき、「うわぁっ!」と声がした。見ると、少し恥ずかしそうな表情をしたその人と目が合った。
「あっ! ごめんなさい、急にうるさくして……波がかかりそうになっちゃって」
照れているような笑顔。小さなピアスが、朝日にきら、と反射した。光を受けた波飛沫みたいに、少しだけ眩しさを感じる。
「いつもここで……なにしてるんですか?」
話しかけるつもりなんてなかったのに、思いがけずかけられた声と人懐っこそうな雰囲気に自然と言葉が出た。
「あ、見られてました?」
「はい。わたし、毎朝散歩してるので」
「えっそうなんですか!? 全然気づいてなかった! 夢中になってて!」
そう言って手にしていたビニール袋の口を広げると、覗いてごらんというようにわたしの顔を見た。まるで宝物を見せる子どもみたいに少し自慢げに、少し恥ずかしげに。
「これ……貝殻、ですか?」
ビニール袋には大小、色も形もさまざまな貝殻が入っていた。なかにはそれ以外のものも。
「そう。趣味なんだよね」
いつの間にか敬語じゃなくなっている。
けれど、嫌味がない感じ。
「こんなにいろいろ、拾えるんですね」
白い二枚貝、うずまきみたいな厚みのある貝、虹色に反射する貝、赤や黄色のカラフルな貝……。毎朝歩いていたのに、全然気づかなかった。
「きれいですね」
「でしょ!? 拾ってるとそれしか見えなくなってね、たまにさっきみたいなことになる」
ビニール袋に隠されていた宝物たちから目が離せなかった。毎日同じ場所にいて、この人と自分の見ているものがこんなにも違うなんて。
貝殻に気づかないわたしと、わたしに気づかないこの人。なぜか小さな笑いが零れる。
――明日もきますか?
そう聞く前に「明日もいるよ」と、袋を覗くわたしの頭上から声が降った。
「帰るの三日後だから」
顔を上げると、わたしの宿泊先と同じ場所を差す指が見えた。
名前も知らないその人の趣味――貝殻拾いは、ビーチコーミングというらしい。海岸に打ち上げられた漂着物を観察したり集めたり。貝殻以外にシーグラスと呼ばれるガラスや、陶器の欠片、化石、骨など人によって拾うものはさまざま。アクセサリーに加工する人なんかもいるそうだ。ビーチコーミングをする人たちのことはビーチコーマーと呼ぶんだとか。初めて触れる世界は知らないことばかりで奥が深い。砂浜を見ながら歩いてみるのも、楽しいかも。
見せてもらったビニール袋の中身を思い出す。わたしだったらどんなものを拾おう。なにが見つかるだろう。頭の中を空っぽの宝石箱に見立てて、さまざまなものを詰めてゆく。色とりどりの貝殻やシーグラスが収められていくたびに失恋で空いた心の穴も塞がるような気がして、夢中で想像しているうちにその日は眠りについた。
♦︎♦︎♦︎
冷たい潮風に鼻先を赤くしながら、今朝もわたしとビーチコーマーさんは砂浜にいた。
昨日までと違うのは、一緒に同じ場所を見ていること。
「これ、なんですか?」
「それは波間柏。薄くてきらきらして、きれいだよね」
淡いオレンジ色の、少し不格好な円形の貝殻は太陽の光に当たるとツヤツヤと輝いた。
「それ、好き?」
「はい。でも、どうですか、これ。ちょっと形が変?」
疑問を口にすると、ふふ、と小さな笑い声がした。
「いいんだよ、どんなのでも。自分が好きだと思ったら拾っていい。それがビーチコーミング」
「なるほど」
好きだと思ったもの。じゃあ、これとか。
引いていく波の中で置き去りにされ、きらりと光る一粒を拾い上げた。
「あ、シーグラスだね。まん丸で可愛い」
波に揉まれて角がなくなったガラス片。
「"人魚の涙"でしたっけ」
「そう。よく知ってるね」
「ちょっと調べたんです」
わたしがそう言うと、ビーチコーマーさんは嬉しそうに目を細めた。
「興味を持ってくれた人が増えて嬉しいなあ」
その言葉がなんだか照れ臭くて、恥ずかしくて、目を逸らしたついでに、今日も手にしているビニール袋を指差した。
「今日はどんな貝殻を拾ってるんですか?」
「見る?」
昨日と同じ、少し子どもっぽい、大切なものを見せるときの笑顔だ。
二人で大きな流木に座って、成果を見せてもらった。
同じ砂浜でも、日によって、時間によって、拾えるものはがらりと変わるらしい。波が運んでくるものは多種多様で、何度も通った浜で初めてのものに出会うこともある。そんなときは、やっと出会えたね! 可愛子ちゃん!なんて気持ちになるそうだ。
「これは……?」
ビニール袋を漁らせてもらい、二人の間に置いた。
「それは化石」
「化石!?」
「そんな驚く?」
「砂浜で化石が拾えると思わなくて……」
両手で砂を掬って、さらさらと風に飛ばしながらビーチコーマーさんが笑う。
貝殻に石がくっついたようなものがわかりやすい化石らしい。窪みに堆積した砂が石化しているのだとか。
「これは?」
「カニ」
カニの甲羅。
「あ、シーグラス」
「うん、珍しい色味だったから」
薄い紫色の小さなシーグラス。
「これは?」
「骨」
「骨ぇ!?」
魚の骨だった。関節のところがちゃんと曲がってきれいでしょと言われたけれど、よくわからない感性だと思った。
実際に拾ったものを一つずつ見せてもらって、本当に好きなものを拾っていいんだとわかった。
その人だけの、宝物……。
わたしにも、見つけられるんだろうか。可愛子ちゃん。
そんなことを考えていると、ビーチコーマーさんは思いついたように袋からなにかを取り出した。
「ね、これ、あげる」
手の平には小さくて薄いピンク色の貝殻。
「これは?」
「桜貝。波間柏とかシーグラスが好きなら、好きかなって」
「ありがとうございます」
割れやすいから気をつけて、と貝殻を摘み上げるわたしにその人が言う。波や風の音がこんなにも大きいのに、この人の声はどうして、すっと耳に入ってくるんだろう。
「ちゃんと見ていればね、とっておきの宝物に出会えるんだよ」
考えていたことを見透かされているかのような言葉。
自分がドキドキしているのがわかった。
ずっと好きだった人に振られたばかりなのに。
変なの。
――このままこの人に会っていたら、好きになってしまいそうだ。
傷心のところを優しくされて好きになりそうだなんて、単純だな、わたし。ばかみたい。
なぜか勝手に、幼馴染に申し訳ない気持ちになった。大好きだった想いは本当だよ、とか、心の中で言い訳までして。
ビーチコーマーさんと会えるのは、あと、二日だけ。
♦︎♦︎♦︎
いつもより早起きをして、砂浜に向かう。
明日チェックアウトするなら、ゆっくり過ごせるのは今日だけだろう。待ち合わせしているわけじゃない。だから少しでも早く海に行って、少しでも長く、一緒に宝物を探したい。
成果を見せてもらった流木に座り、今日も荒波を立てている海を眺めた。
明日で最後だからって、名前を聞こう、それから連絡先を交換しよう。いや、まず、これから先も連絡を取りたいって、一緒に海に行きたいって、言うのが先かな……。
ああだこうだと悩んでいるうちに「おはよう」と耳に届く声。
――振り返ったわたしはどんな顔をしていただろう。
動揺を、うまく隠せていただろうか。無愛想に見えなかっただろうか。
多分、大丈夫。
この状況に驚いていると思われただけみたい。いつもと同じ笑顔を向けてくれる。
にこやかな彼女の左手に包まれた、小さく柔らかそうな手。初めて見た、薬指のリング。隣を歩く、背が高い短髪の男の人。
「おはよう、ございます」
なんとか振り絞った声は周りの音にかき消されてしまいそうで、きちんと届いたかわからなくって、もう一度言ったほうがいいかもと思ったけれど、それでもそれ以上、言葉が続かなかった。
明日は朝早くにチェックアウトしてしまうから海にこられないと彼女は言った。
「一緒に浜を歩いてくれる女の子がいるって言ったら、どんな物好きだって、この人が」
破顔した表情は幸せそうで。
「あ、わたしは……」
ただ、こんな世界があるんだって知って。それが楽しくて。
そんな失礼な言い方してないだろ、と旦那さんが焦って、彼女があはは、と笑って、子どもが抱っこをせがむ。
幸せな、家族の形。彼女の持つ、宝物。
「楽しいなって、思ったので」
あなたと歩くのが。とっておきを、探すのが。
言葉を飲み込んで、彼女を見る。ブラウンのショートヘアが風で揺れる。
ああ、正面からちゃんと顔を見たの、初めてかもしれない。彼女はいつも、砂の上に散らばる宝物を集めていたから。わたしはいつも気恥ずかしくて、すぐに目を逸らしてしまっていたから。横顔ばかり見ていた。瞳も、こんなにきれいなブラウンだったんだ。
旦那さんとお子さんが一緒だったこともあって、彼女はいつもより早く海を去ってしまった。名前も連絡先も聞けず、言いたいことはなにも言えないまま別れてしまった。
宿泊している部屋からは暗い海が見える。
いや、正確には見えない。夜の海を照らすには月明かりでは心許なくて。大きな、深い、なにもかもを飲み込むその存在を感じるだけだ。
荒波の音が規則的に聞こえ、そのたびに浜辺へなにかが運ばれてくる様子を思い浮かべた。
ローテーブルの一角に集められた小さな宝物はランプに照らされ、ぼんやりとした明かりの下で煌めいている。桜貝を手に取って光にかざすとうっすらと向こう側が透けて見えるようだったけれど、そのうちに指に力が入ってしまったのか、パキ、と小さな音を立てて欠けてしまった。
――触らないほうが良かったのかもしれない。
欠けたところからヒビが入り、ピンク色の貝は割れてしまった。
気をつけてって、言われたんだけどな。
ちくりと胸が痛む。言われたことを守れなかったからなのか、それともほかになにか理由があるのか。
彼女はまたどこかでとっておきを探すんだろう。砂浜にしゃがみ込んで。ほかのものには目もくれず。
砕けて小さくなった桜貝。
もう少し。もう少しだけ長く、わたしの宝物でいてほしかった。
嘲るように笑ってみると、涙がひと筋零れた。次々に溢れた雫は宝物を濡らし、輝かせる。
きれいだった。貝殻もシーグラスも、水に濡れると輝きを増して一層美しい。
目を閉じる。近づいて、遠のいて。波の音が心地良い。
海はまたどこからか、宝物を運んでくれる――。
終
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