5 ①

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5 ①

 旅行から帰り、翌日にはいつも通りの生活が始まった。  あれから一週間経つけれど熊野とは一度も会っていないし、連絡も取り合ってはいない。予定していた通り仕事が忙しくなったのもあるけれど、そもそも連絡先を交換していないから連絡の取りようがないのだ。  まぁ会おうと思えば同じ会社なのだし可能ではあるけれど、オレから会いにいくことはできなかった。熊野にどんな顔をして会えばいいのかが分からなかったのだ。  あの夜、オレたちはキスをして、お互いの裸も見たし、直接触れたりもした。抜き合いで欲も出し合った。恥ずかしいことを沢山したのだ。それでもオレは抱かれなかった。  オレからしたらあそこまでしておきながら、抱いてもらえなかった(・・・・・・・)ということになる。  抱いて欲しいと言って、あそこまでしたなら最後までするのが普通だと思う。  もちろん熊野が安心して次へいけるようにという目的があってのことだから、オレがどう思うかは関係ない。最後までするもしないも熊野次第で、オレとの行為で次へいくことができるならいい、くらいに思っておくのが多分正解なのだろう。お互いの為にもあの夜のことはなかったことにして、熊野の自信だけが残ればいいのだから。  だとしても、正直オレは自分のことが恥ずかしくてたまらない。抱かれなかった事実より身体を差し出したなら、当然抱いてもらえるものだと思っていたことが恥ずかしいのだ。  同じ会社に勤めている限り一生会わないということは熊野の業務の性質上できそうにないけれど、できればもう少しだけ時間が欲しい──。  そう思っていたけれど、そうも言っていられなくなってしまった。申請しないといけないものが溜まってきてしまっているのだ。このまま放置してしまえば熊野から呼び出しの連絡がくるだろうし、余計な仕事を増やすことになる。そんなのはダメだ。 「どうするかなぁ……」 「あれ、神楽坂、お前も出し忘れか? 人喰い熊に初喰われか?」  そう言ってニシシと笑う、自称情報通の山本(やまもと)。  初喰われだなんて、そんなの……となんとも言えない気持ちでへにょりと眉尻を下げると、山本は一瞬だけ変な顔をしたけれど深くは考えない性格なのか、すぐに「ほらほら、一緒に行くべ。行くべ」と、山本はオレの背中をバンバン叩いた。  オレは少し咽せてしまったけれど、そのおかげで仕事だけど熊野に会いにいく決心がついた。  うちの五階上にある経理課へ向かうエレベータの中、気持ちを整えたはずが経理課(目的地)に近づくにつれ足取りは重くなり、胸のドキドキが抑えられないくらい大きくなっていく。  不安と緊張に押しつぶされそうになりながら、久しぶりに見た熊野はひどく疲れて見えて、オレはハッとした。自分のことばかり考えていたけれど、熊野は元カノと別れたばかりだったのだ。旅館では笑ってくれていたから勘違いしてしまった。  オレだって何年も引きずっていたくせに、なんで熊野は平気だと思ったのだろうか。あの夜のことだって、熊野は普通の状態じゃなかったのだ。それをオレが無理に誘った。寝て起きて、熊野はひどく後悔したのかもしれない。  だからオレになにも言わずに帰った。だとすれば合点がいく。なのにオレは身勝手にも傷ついて自分を恥じて、そして逃げた。  力になりたいとしながら逆に熊野の負担を増やしているのではないか。謝ることは絶対だとして、なんて言って謝ればいいのか。謝って、許してくれるだろうか……。  いや、許されるかどうかじゃなく、まずは謝らなければ。  オレの分の手続きをしているの熊野の眉間に刻まれた深い皺を見つめ、そんなことを考えていた。だけど勇気がなくて声をかけられずにいると、熊野が少し困ったようにオレのことを見ているのに気がついた。 「あ……」 「……かぐ……「次はこっちをお願いしまっす!!」  恐らくオレの名前を呼ぼうとした熊野だけれど、空気を読まない山本によってそれは途中で遮られてしまった。熊野のことを怖いと言いながら、今回は書類を期限内に持ってきていて、山本は少しだけ強気だ。ついでとばかりにあーだこーだと煩い。  それが普通だろって思うし、こういうのばかりを相手にするのはさぞや疲れるだろうと、オレは熊野に同情する視線を向けた。熊野は苦笑し、そのまま山本の対応に移ってしまった。  こうなればこのままここにい続けるのもおかしな話なので、次の機会をできるだけ早く作ろうと決心して、ぺこりとお辞儀をしてその場を後にした。
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