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状況が把握できない理乃を置き去りに、文香はカップルがケンカしていた場所からさらに斜面へと進み、ロープ際に立った。
「警察、呼んでくれる?」
「どうして」
予想もしない頼みに、驚いて聞き返す。
「あの下に。人が」
え?
理乃が文香の隣に立って身を乗り出すと、指さす先、斜面に点々と低木が広がる中に、一瞬違和感を覚えるものが見えた気がした。目を細めて注意深く凝らす。
「あ」
あの白いの。山肌の黄土色の上に、低木に茂った緑の葉の下から小さく覗くものは。スニーカーの爪先だ。
慌てて通報すると、日が傾く頃駆けつけた警官たちの手により、三十代後半の男性の遺体が発見された。よほどショックだったのか、文香は蒼白な顔のまま、ロープ際を離れなかった。最初は文香が気づいた、と同意を求めても返事もしてくれない。頬の輪郭に、はかなさすら漂わせる文香に無理強いもできず、仕方なく理乃が一人で、二人の刑事に状況説明を繰り返していた。
「あんなところに倒れてたの、よく見つけたな。アンタが落っことしたんじゃないのか」
白髪頭の刑事は疑いを隠そうともせず、だみ声と険しい視線をぶつけてくる。
「ダメですよ、そういう決めつけ。睨んで威圧するのも」
すみませんね、と長身の若い男性刑事は物腰柔らかに会釈してくれるが、スニーカーを発見したときの理乃の立ち位置と山に登った理由は詳細に尋ねられた。段々疲れてきて、暗くなると困るし、もう帰らせてくれないかな、と溜息が漏れる。そのとき、視界の隅に刑事たちの革靴を捉えた。ネクタイはしていないが、半袖にしろワイシャツにスラックス姿の二人に、こんな山の上まで、ホントにいつどこに呼ばれるかわからない職業だなあと感心する。中腹までは車でも来られるし、登山道もちゃんとあるからマシな方たろうが。
刑事たちがこちらに聞こえないよう相談を始めたので、――といってもだみ声が筒抜けで、理乃を帰すなと言っているのはすぐ知れたが――理乃は背後に立ち尽くした文香に並んだ。一人で帰れそうになければ送っていくつもりだった。
「ホントによく、人がいるのに気が付きましたね」
夕陽に照らされて、帽子のつばの陰影が目元から頬に色濃く落ちるせいか、文香の表情からはショックが薄れる気配はいっこうに見られなかった。オレンジに染められた全身が、そのまま夕陽に溶けてしまいそうな気がして、文香さん、と声をかけると、
「私が、落としたから」
蚊の鳴くような声で、思いもよらない言葉が返ってきた。
「ごめんなさいね、理乃さん。あなたが疑われるってこと考えてなかった。でも、大丈夫。今から言う住所を刑事さんに伝えて、三〇五号室を調べてもらって」
「ちょっと待ってください」
戸惑いながらも、文香が町名を口にするので急いでスマホを取り出し、打ちこむ。
「調べてもらえば。遺書に。ちゃんと全部、書いてあるから」
「え」
今、なんて。遺書? 弾かれたようにスマホから目を上げた。
「ありがとう。理乃さん。一緒に登れて、楽しかった。山の思い出が、イヤなもので終わらなくてよかった」
オレンジ色の文香が見せた微笑みが、理乃の胸に迫り、聞きたいことが喉に詰まる。どうしてそんな、懸命にこらえながら、笑うの? これが最後で、もう二度と会えない、みたいに。
「できれば、もっと。早く」
目に溜めた涙が伝い落ちそうなところで、文香が深々腰を折った。理乃は、いまだ言葉を見つけられずにいる。
「アンタ一人でぶつぶつ言いながら何やってんだ」
刑事のだみ声に割りこまれて、つい声を張り上げた。
「静かにしてください、今大事な話してるんだから。あなたたちも聞いてくださいよ、ちゃんと」
ほんの数秒、視線を外した、その隙に。
え・・・。
文香に戻した理乃の視線の先に、いるべき彼女は消えていた。オレンジ色の山の景色を残して。
「あの」
目を見張って固まる理乃に、若い刑事がそっと声をかける。
「どなたかいらっしゃるんですか。僕らには、あなたお一人に見えるんですが」
驚きに驚きの追い打ちをかけられてしまった。そんな。何度見回しても、何度名を呼んでも、どこにも姿も返事もない。暮れかけた今となっては冷たいオレンジ色の風が、理乃の背筋を震わせた。
「署でゆっくり聞こうか。大事な話とやらを」
そのまま、理乃は連行されてしまった。
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