山で出会った彼女のこと

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 何度もせがんでようやく実現した外出だった。デートで山、というのもあまりない行先かもしれないが、人込みを嫌がる彼への提案にはぴったりに思えたし、小さい頃家族で山登りした記憶はどれも楽しいものだった。  道中は、疲れたと繰り返してばかりの彼も、山頂の景色に触れるとさすがに満足そうだった。久しぶりに作り笑いでない笑顔を見られた気がする。二人で端まで行って並んで、心地よく深呼吸した。文香は目の前の景色に自分の思い出を重ね、何気なく口にしただけだった。 〝子供、できたら。こういうのいいね、家族で自然と触れ合って〟 〝まさか、できたのか〟 〝うぅん、できたらの話〟 〝なんだよ紛らわしいな。それだけは勘弁してくれ〟 〝どうして、そんなこと言うの〟 〝妻も子供もいるんだ〟  目の前が、真っ暗になった。 〝嘘。そんなの聞いてない!〟 〝二年も続いてれば気付くだろ〟  唇を噛む。  彼が泊まらず必ず帰宅すること、ホテルや文香の部屋でしか会わないこと。仕事が休みのはずの週末の方が会えないこと、映画館やショッピングモールなど街中のデートは却下されること。  人込みは苦手なんだ。君の部屋はいつもきちんとしてて居心地がいいから、唯一寛げる場所なんだよ。文香は男の言い訳を全部信じた。信じたかった。 〝じゃあ。奥さんと別れたらいいじゃない。私のこと、愛してるって言ってくれたでしょ〟 〝潮時だな〟 〝待ってよ。ちゃんと話を〟 〝話なんかないだろ。終わりってだけだ。離せ〟  揉み合ううちに彼が落ちた。 「不幸な事故だったようです」  理乃は後日、待ち合わせたカフェで、文香の遺書に事細かに記された状況を教えてもらった。 「そんなに詳しく、私に話していいんですか」 「夜中まで拘束して、あなたには迷惑をかけましたし。独り言が口から出ただけだと思ってください」  井間(いま)は若いが理乃より上の三十五歳。非番ということで、カジュアルな服装に柔らかな笑みをたたえていると、まったく刑事には見えない。刑事ドラマで勝手にイメージ作りすぎかもしれないな、と反省する。
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