「おかえり」が言えない

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 母の「行ってきます」は聞いたことがなかった。朝飯を食った後は、母が出ていくまでの間に布団に入って寝てしまうからだ。 「行ってくるねぇ、キヨシぃ」  その日は、食が進まずだらだらと食っていたせいか、初めてその言葉を聞いた。これから勤めに行く五十半ばの母と、これから自堕落を行く息子……飯はもう喉を通らず、俺は逃げるように布団を引っ被った。  情けないことに、それでも眠気はやってきて、昼夜を取り違えて俺は惰眠を貪った。  だが、しばらくすると微睡みの向こうから、しつこく覚醒を促すバイブ音が俺を呼んだ。  間違えてアラームを設定していたのかと、カーテン越しの陽射しに目を細めて、おざなりにスマホの画面を撫でる。  バイブ音はなりを潜めたが、スピーカーから割れた声が漏れ出した。  しまった――。アラームと思い込んで触れてしまったが、着信だったようだ。この部屋に篭ってから鳴った試しがなかったせいで、そんな機能があったことすら忘れていた気がする……。 『ああ、キヨシくん? あたし、ミチコです』  割れた声は、母の妹のミチコ叔母さんだった。  俺が「ああ」とか「うう」とか、まともに話せないのも気にしない様子で、叔母は話し始める。 『元気だった? ほら……ねぇ? あの後キヨシくん、突然引っ越しちゃったでしょう? 連絡もつかなくて、みんな心配してたんだから。やっと出てくれて安心した』  引っ越し? 俺が? なんのことだ?
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