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実験の結果現れた縦縞は、もし光子の性質が粒ではなく、波なら何の不思議もないらしい。
並んだ二つの切れ目から同時に波が放出されると、互いが干渉し合って強調される部分と打ち消し合う部分ができる。強調される部分は光子の影響が強く、打ち消し合う部分には光子が到達しないので、縞模様になるのは当然というわけだ。
「光子ってのは粒で、切れ目に向かって一つずつ撃ち出される。でも奥の壁には粒ではなく波の特徴が現れる。確かに奇妙だが、実験なら切れ目を通過した光子ってやつを詳しく調べるのが筋だろう」
「そう、だから切れ目の向こう側に観測器を置いて、再度光子を一つずつ飛ばしてみたそうよ。粒なのに波の特徴を示す光子が、どんな動きをしているのか確かめるために」
「で、結果は?」
何気なく訊ねると、澄まし顔だった美里の口角がくいと上がった。どうやら望み通りの反応だったらしい。
「教えて欲しい?」
「……別に」
美里の得意げな表情が癪に触り、思わず視線が泳いだ。何か言い返してやりたいが、それよりも実験の顛末が気になって仕方がない。
「続けろよ。せっかくここまで話したんだ」
微かに失笑が聞こえたような気がした。美里らしくない意外な反応──。
さっきまで逢っていた女の、強気で生意気な微笑みが脳裡に浮かんだ。別れ話を切り出しても、少しも歪むことがなかった余裕に満ちた眼差し。あの女はまだ二十代だ。すっかり燃え尽きた火遊びに再度火をつける気など、さらさらないのだろう。
「切れ目を通り抜けた光子はね、真っ直ぐに飛んで壁にぶつかったの」
「それだけか?」
「ええ、それだけ」
とんだ肩透かしだ。思いも寄らない挙動を期待していたのに、真っ直ぐ飛んで壁に当たるだけならボールと同じではないか。
「拍子抜けした?」
まるで幼子をあやすときのように、美里の戯けた瞳が目の奥を覗き込んでくる。
「当たり前だろ」
返事を聞いた途端、美里は盛大に吹き出した。
「やっぱり気づかない。人の話はちゃんと聞かないと駄目よ」
「どういう意味だ。それに、勝手にくだらない話を始めたのはお前だろ」
「今の返事だって、上の空だったことがバレバレよ」
「お前、いい加減にしろよ」
「気に入らないことがあると、すぐそうやって大きな声を出す。少しは淳さんを見習ったら?」
「あんな陰気で冴えないオタクを見習え? 笑わせるな」
グラスに残っていたビールを一気に呑み干し、眉をきつく寄せて美里を睨みつけた。いつもはおとなしい美里が、これほど食ってかかってくるとは驚きだ。本当は帰りが遅かったことを根に持っているのだろうか。それとも、たくさん作ったカレーを断ったことがよほど気に障ったのか。
「──ごめんなさい、ちょっと言い過ぎた。でもさっきの話は拍子抜けじゃなくて、不思議だって言ってほしかった。だって光子は真っ直ぐ飛んだのよ?」
「真っ直ぐ飛ぶように撃ち出したんだろうが。ぐにゃぐにゃ曲がって飛んだなら、いくらでも驚いてやる」
「違うのよ。それまで光子は壁に縞模様を浮かび上がらせていた。何らかの力によって変化していると予測されていたの。だから例えば曲がったり、粒から波に化けたり、とにかく思いも寄らない様子が観測されるはずだった。でも実際に観測されたのは、ただのボールみたいに真っ直ぐ飛んで行く光子」
「だったら縞模様はどうなる」
「切れ目の向こう側を観測していると、奥の壁には二本の切れ目と同じ形の跡しか残らない。縞模様にはならないの。でも観測を止めるとまた縞模様が現れる。どう?」
言いたいことがわかってくると、そこはかとない不気味さが忍び寄ってきた。どんな変化が起きているのか観察しようとすると、急にこれまで通りの動きに戻ってしまう。まるで微粒子が意思を持っていて、自分の性質を知られないよう動きを使い分けているようだ。
なぜ美里に説明されるまで気づかなかったのだろう。認めたくはないが美里の言う通り、話を聞く力が足りないのか。いや、違う。美里の話し方が悪かったのだ。実験の顛末を伝えるだけなら、謎めかしたりせずさっさと結論を話せばいい。それなのに彼女は、わざわざ相手の反応を面白がるような勿体つけた話し方をした。
いつも穏やかで素直な美里も、人をからかうくらいの傲慢さは持っていたということか。ということは、淳から聞いたこの話は美里にとって印象深く、しかもよほどの驚きだったのだろう。
「訳がわからん。結局この実験は何なんだ」
「あなたの感想通りよ。今のところこの現象は、観測器の干渉が光子の変化を妨げていると思われてる。でも、光子が粒になったり波になったりすることは紛れもない事実。要するに、私たちが住むこの世界は、すべて二面性を持っているってこと」
「二面性?」
「そう、粒で発射された光子が真っ直ぐ壁に到達したり、波の特徴である縞模様を作ったり。結果は違うけど、どちらも間違いなく光子が起こした現象。つまり光子の中で二つの性質が重なり合っていて、どちらの結果が出るかは状況次第ってこと」
「不気味だな。俺たちの周りはそんなあやふやなものでできているのか」
「そうね。でも、よく考えたら当たり前のことかも。あなたと淳さんだって、顔は似ていても体型や性格は全然違うでしょ。同じ遺伝子を持っているんだから同じ個体と言えなくもないのに、こんなにも差がある。これだって立派な二面性じゃない?」
確かに雅彦と淳は、幼い頃からまったく似たところがなかった。これで顔も似ていなかったら、本当は血が繋がっていないのではと疑ってしまうところだ。
「俺と淳が、光の粒と同じ? 冗談じゃない。だったら陽太と芽衣はどうなる。あの二人は兄妹だが性格も好みもそっくりだ。二面性なんてどこにも見当たらない」
話が大きく逸れたせいか、美里は一旦言葉を呑み込むと、まるで慎重に言葉を選んでいるようなたどたどしい口調で答えた。
「──陽太と芽衣だって二面性を持ってるわよ。ほら、性別が違うじゃない」
「それだけだろ。あとは勉強ができて、おとなしい性格で、運動音痴なところまで全部そっくりだ。おまけに、俺に全然懐かないところだって……」
「それは仕方ないわよ。あなたは家にいる時間が短いから。まあ、もっと子供たちと積極的に接してくれれば違ったのかもしれないけど」
「仕事で忙しいってのに、子供なんかに構っていられるか。お前がちゃんと教育すればよかったんだよ。親父は尊敬するものだってな」
美里は黙ったまま、テーブルの上で重ねた自分の手を静かに見下ろしている。今夜は少し変わったところもあったが、ようやくいつものおとなしい美里が戻ってきたようだ。やはり美里は、ずっとこうでなくては困る。
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