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 美里と出会ったのは、社会人になって三年目の春だった。雅彦が新入社員だった彼女に目をつけたのは、女子社員たちのある噂がきっかけだった。美里の実家はそこそこの資産家で、しかも彼女は一人っ子らしい。  雅彦はすぐに行動を起こした。同期の中で最も仕事ができない上、ギャンブルでこしらえた借金まである。そんな彼にとって美里は、これまでの人生から抜け出すための恰好の獲物だった。  優しい顔で近づき、彼女の言うことには何でも笑顔で頷いた。その一方、ちやほやされることに慣れているお嬢様育ちの彼女の気を引くため、たまに距離を置いたり、少し厳しい言葉で叱ってみたりもした。  雅彦には時間がなかった。借金の返済もそうだが、無理をして被っている化けの皮はそう長くは保たない。それに、女子社員たちの噂話ほど恐ろしいものはない。雅彦の決して良いとは言えない評判が耳に入ってしまえば、彼女はたちまち雅彦への興味を失ってしまうだろう。そうなる前に何としても彼女の心を奪ってしまう必要があった。  必死のアプローチがどうにか実を結び、雅彦と美里は結ばれた。その反動からか、雅彦の素行は結婚した途端に乱れ始めた。前にも増して金遣いが荒くなり、美里のカードで金を借りたことも一度や二度ではない。当然女癖も悪く、帰りが遅い日は大抵、お世辞にも品がいいとは言えない女としけ込んでいる。  美里は結婚当初、雅彦の本性を目の当たりにしてかなり面食らっていた。だが数か月も経つと、彼女は何事もなかったかのように普段の顔つきに戻っていた。ひどい素行に慣れてしまったのか。それとも、押しの強い雅彦を相手になす術を失っているのか。いずれにしても温室育ちの世間知らずだけに、あからさまに歯向かったり、逃げ出したりといった思い切りのいい行動はなかった。  彼女の穏やかで控えめな性格は、雅彦にとってこの上なく心地好い。だがさすがの雅彦も、たまに疑問に思うことがあった。この結婚生活を笑顔で十三年も続けている美里は、どんな気持ちで毎日を過ごしているのだろう。腹が立ったり、呆れ返ったり、愛想を尽かしたりといった心境にはならないのだろうか。  帰宅早々おかしな実験話をするくらいなので、ここのところ日々が退屈なのだろう。ちょうど今夜は、二年ほど付き合った不倫相手と別れてきたところだ。しばらくはまっすぐ帰宅して、軽く美里の機嫌を取っておいたほうがいいかもしれない。 「私が言い聞かせたくらいじゃ、子供たちは懐かないわよ。陽太と芽衣だってちゃんと相手を見てるし、むしろ直感は大人より鋭いくらいだから。この人は自分を大切に思っているか、それとも興味がないのか。誰かに頼らないと生きられない年齢だからこそ、その辺は敏感に感じ取っているみたい」 「俺が子供を大事にしていないっていうのか? あの二人が内気過ぎるんだろ。それとも、他に懐いてるやつでもいるのかよ」  急に立ち上がった美里は、台所の戸棚を開けてグラスを無造作に摑み取ると、居間に戻ってテーブルの上に置いた。雅彦の缶ビールを引ったくり、自分のグラスに注いでちびりと口に含む。普段は一滴も呑まない美里と、溢れんばかりのビールに満たされたグラス。あまりにも見慣れない異質な組み合わせだ。 「まあ、いないこともないけど。例えば……」 「例えば?」 「淳さんとか」 「子供たちが淳に? あんな数式と理屈を煮詰めたみたいなやつに懐くわけ……」  雅彦の呆れた様子がよほど可笑しかったのか、美里はグラスを片手に失笑を漏らした。 「あなたは淳さんのことを陰気だって言うけど、全然そんなことないわよ。私の料理をいつも美味しいって言ってくれるし、子供たちが家にいるときは必ず一緒に遊んでくれる。二人とも淳さんと遊ぶのを楽しみにしているくらいよ」  絶句するしかなかった。雅彦が知っている淳は、部屋に閉じこもって本ばかり読んでいて、必要最小限の言葉しか発せず、いつもおどおどと視線を泳がせている根暗で臆病な男だ。実際、雅彦が目の前にいるときは淳もそのような態度だし、両親からも淳の明るい様子など聞いたことがない。 「馬鹿言うな。引っ込みがつかなくなって話を作ったな。珍しくビールを呑んだのも、嘘をつくための気つけが欲しかったからか? なるほど、これがお前の二面性ってわけか」  (すご)むような口調とは裏腹に、身体中から嫌な汗が噴き出してきた。Tシャツが汗でじっとりと肌に張りつき、背筋をひやりとさせる。 「ごめんなさい。嘘じゃないんだけど、嫌な思いをさせちゃったなら忘れて。子供や家のことで振り回すつもりはまったくないから。あなたはこれまで通り、毎日お仕事を頑張ってくださいね」  さらに嫌味を言われるかと思いきや、どうやら見込み違いだったようだ。ただ、非難を免れたことはありがたいが、ここまで従順だとむしろ不安になってくる。彼女はどこまでお人好しなのだろう。そのうち悪い友人に騙されたり、おかしな金儲けや宗教にはまり込んでしまったりしないだろうか。 「悪いな。これからも帰りは遅くなるが、出世を左右する大事な時期なんだ。もうしばらく我慢してくれ」  大嘘だ。会社ではとっくに閑職に追いやられている。いきなりクビになるようなことはないだろうが、万一そうなっても構うものか。いずれ美里の実家を継ぐ身だ。美里という世間知らずのお嬢様がいる限り、将来の安泰は約束されている。 「そろそろ寝る。風呂に入るから着替えを用意しとけ」 「あ、ごめんなさい。すぐ沸かすから待ってて」 「帰って一時間近く経つんだぞ。沸かす時間くらい、いくらでもあっただろ」  慌てて浴室に向かった美里は風呂の準備を済ませると、苦笑いを浮かべて居間に戻ってきた。 「うっかりしてたわ。淳さんが入ったから一旦お湯を抜いたのよ」  夕飯にカレーを食べた淳は、暢気に風呂まで入っていったらしい。いくら弟とはいえ、少し図々し過ぎはしないだろうか。どうやら今度会った際に、それとなく注意する必要がありそうだ。  そのときふと、嗅ぎ慣れた良い香りが鼻先を横切った。部屋用の芳香剤などではない。居間には似つかわしくないシャンプーの香り。美里が浴室のドアを開けたくらいで、廊下の先にある居間まで漂ってくるだろうか。いや、そんなことはありえない。だとすると、この香りは一体どこからやって来たのか。  はっとして美里の顔を覗き込む。 「お前、化粧を落としてるな。風呂に入ったのか?」  美里は外出しない日も薄化粧を欠かさない。そしてたった今、彼女が運んできたシャンプーの香り。返事を聞くまでもなかった。 「はい」  美里は何食わぬ顔をして頷いた。たちまちどす黒い暗雲が胸中に立ち込める。居ても立ってもいられなくなり、勢いよく立ち上がって美里を睨みつけた。 「淳と話をしてくる。場合によってはぶん殴ってでも……」 「待って」  珍しく雅彦の言葉を遮った美里は、ソファに座って静かにグラスを傾けると、まるでこの状況を味わうかのようにゆっくりと舌舐めずりをした。 「滅多打ちにされないよう、気をつけてね」 「はあ? 俺が拳で負けるわけないだろ」  世間知らずで従順なはずの美里が、ひどく強気な視線を向けてくる。 「二面性の話、覚えてる?」 「それがどうした」 「あなたの拳より、彼が放つ真実のほうがずっと強烈かもよ」  胸中の暗雲から稲光がほとばしり、思い描いていた未来を真っ二つに切り裂いた。いやに勉強ができる内気な兄妹。その兄妹を可愛がる頭脳明晰な弟。そして、一切不満を言わず、妙に献身的で、何があっても反論さえしない優しい妻──。
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